解党すれば終わるのか? 民主市民党の解党求める裁判へ
2007年11月17日付 Radikal 紙

最高裁判所検事局は、「民主主義システムが想定した以上に、民主市民党(DTP)は分離主義テロ組織とそのリーダーの影響を受けており、すべての綱領でテロ組織の目的を支援する構造」になっているという理由から、DTPに解散を求める裁判を起こした。党が解散されなければトルコ国内で衝突が起こりうるという警告を出した検事局は、DTP党首ヌレッティン・デミルタシュ氏ならびに、国会議員のアフメト・チュルク氏、アイセル・トゥール氏、ファトマ・クルトゥラン氏、サバハト・トゥンジェル氏、オスマン・オズチェリキ氏、イブラヒム・ビニジ氏、セヴァヒル・バユンドゥル氏、セラハッティン・デミルタシュ氏、ディヤルバクル広域市長のオスマン・バイデミル氏と、元民主党(DEP)議員のレイラ・ザーナ氏を含む221名のDTPの指導者らに対しても5年間の政治活動の禁止を求めた。
「オジャランに敬称をつけて呼ぶこと」、「DTPがテロを糾弾しないこと」、「DTP議員ファトマ・クルトゥラン氏の(テロの拠点である)山岳地帯にいた証拠を示す写真(本人は否定)」、「DTP指導者らのアブドゥッラー・オジャランを賛美するような発言」などが証拠にあがった。検事局は、憲法裁判所にDTPの選挙参加の禁止と、221名のDTP党員が無所属でもしくは他の政党から選挙へ参加することの禁止、そして今日以降のDTPへの新規入党停止を要求した。最高裁判所検事局は、ヌレッティン・デミルタシュ氏が党首に選ばれ、ブルガリア・モデルを提案したDTP大会での発言も、起訴の根拠として起訴状に明示することを明らかにした。

名称は変わっても、訴訟は続く
DTP結成の政治活動は、まず1992年6月25日の自由民主党(ÖZDEP)で始まった。ÖZDEPは1993年4月30日に解散させられた。アフメト・チュルク氏が党首を務め、1990年7月7日に結成された人民労働党(HEP)は、1993年7月14日に同じ運命を辿った。ハティプ・ディジュレ氏がリーダーとなり、1993年5月7日に結成された民主党は、1994年6月16日に解散。DEP(民主党)が憲法裁判所により解散させられる前に、DEPの指導者らはHADEP(人民民主党)を結党した。HADEPも同じ理由から2003年3月13日に解散させられると、DEHAP(民主人民党)が結党された。DEHAPについて解散訴訟が出されてから、党は自発的に解散し、党員がDTPを結成した。DEHAPの解散訴訟は今も続いている。

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( 翻訳者:林 奈緒子 )
( 記事ID:12463 )