ゼロ以下からのスタートで大創業者に 脱帽の人生をおくったVakko創業者死去
2007年12月12日付 Milliyet 紙
1934年、帽子革命(トルコ帽着用禁止)がまだ始まったばかりの頃、シェン・シャブカ(楽しい帽子)店を開店し、ビジネス界に躍り出たVakkoブランドの創設者のヴィタリ・ハッコ氏が、94歳で人生に別れを告げた。
Vakko創設者のヴィタリ・ハッコ氏は、イスタンブルで亡くなった。一昨日の夕方、具合が悪くなったハッコ氏は、移送先のアメリカン病院で行われたあらゆる処置にもかかわらず、命を取り留めることはできなかった。94歳のヴィタリ・ハッコ氏の死は、Vakkoのインターネット・サイトで、黒の背景の上に全ページを使って告知された。
ページでは、ハッコ氏の遺影の下に、「Vakko創設者、創業者、Vakko一族の素晴らしき長老、親愛なるヴィタリ・ハッコは逝った。我々の哀しみは尽きない」との言葉が記されている。
ハッコ氏の25年来の運転手ハシュム・メンギさんは、ヴィタリ・ハッコ氏を一昨日の12時に腸の具合が悪いからと、アメリカン病院に送り届けたが、ハッコ氏は病院に入るときしっかりしており、話もしていたと語った。ハッコ氏は一昨日の夕方ころ容態が悪化し、深夜0時35分に亡くなったと語るメンギさんは、ハッコ氏の死亡理由は心臓発作の可能性があると告げられたと語った。
■葬儀は本日(12日)
ヴィタリ・ハッコ氏のための葬儀は、本日10時にメルテルにあるVakko工場の建物で執り行われる。ハッコ氏は、その後、ネヴェ・シャロム・シナゴーク(ユダヤ教の礼拝所)で執り行われる宗教儀式の後、国民ユダヤ教徒共同墓地にある家族の墓地に埋葬される。
ヴィタリ・ハッコ氏は、ベイオールにて、小さな帽子の店からスタートさせたVakko(ブランド)を、一大ブランドへと作り上げた。ビジネス界で尊敬を集めた名前、ヴィタリ・ハッコ氏は、1913年にイスタンブルで生まれた。
ハッコ氏が熱い情熱を傾けた職人人生は、共和国の初期、マフムトパシャにある小さな洋品店において、まだ子どものころ、徒弟として始まった。
■有名デザイナーによるデザインを女性らのスカーフに用いた
ヴィタリ・ハッコ氏は、1934年、帽子革命の初期にシェン・シャブカ(楽しい帽子)商店を開店したことで、ビジネス界に躍り出た。ハッコ氏は、「着飾ることは、色彩、祭りである。そのための我々のブランドはシェン・シャプカ」と語っていた。新生トルコ国家をつくりあげ、トルコ社会を現代西欧文明の水準に引き上げようとした様々な努力と興奮があったあの時代に、ヴィタリ・ハッコ氏は、兄弟のアルベルト・ハッコ氏とともに、最初の新しい風を、この努力から、そしてトルコの女性および社会生活の中での女性の地位に重要性があたえられるようになったことで、手にした。ハッコ氏は、1997年に出版した「私の人生Vakko」という本の中で、「帽子革命と服装革命が起きなければ、シェン・シャブカも、Vakkoもなかった」と述べた。
ハッコは、帽子製造の仕事のすぐ後に、生糸がプリント生地製造のためにフランスに送られていた時代に、アナトリアの綿布から、ブルサの絹布から、その当時だれも見たこともないようなスカーフを作ることに着手した。ヴィタリ・ハッコ氏は、まずベデリ・ラフミ・エユボウルをはじめとし、有名なデザイナーと共同で仕事を行った。彼らのデザインをトルコ女性のスカーフに採用したのだ。
■ベイオールが好きだった。
本当にベイオールが大好きだったハッコ氏は、ベイオールを「長い恋物語」として語っていた。彼は1962年に最初のVakkoをベイオールに開店した。なぜなら、ベイオールは、ヴィタリ・ハッコ氏にとってその時代の生活および服飾スタイルそして西欧らしさのシンボルだったのである。1980年代では、「ベイオール美化および保存財団」の創設のために尽力した。ベイオールは彼にとって一つの「理想」であった。ハッコ氏は、この理想のために、党派を超え、就任したすべての市長とよい関係を築くよう努力し、ベイオールのため尽力し続け、努力を惜しまなかった。
■トルコ最大の小売店を開店した
帽子の流行が去った後、スカーフを売ることを始めた店舗にVakkoという名前を付けた。1962年にベイオールに、初めての店舗をオープンした。ベイオールにあるこの店は、トルコにかつてないほどの大型店舗であった。Vakkoという店舗とブランドを、トルコで最高の高級服飾店の一つにしたのだ。ヴィタリ・ハッコ氏は高齢になって経営権を息子のジェム・ハッコ氏に譲渡してからも一緒にショップの経営にかかわり、その経営を見守り続けていた。 ハッコ氏は、一週間に一度はVakkoの店舗にやってきたのであった。
■流行の発信者であった
ヴィタリ・ハッコ氏は、値段交渉によらない定額販売をおこない、行き当たりばったりの値引きの代わりにきちんとしたセール日を設け、さらには返品システムなど、今日「顧客サービス」として定着した新しい商売のやり方をトルコに根付かせたことでも大きな役割を果たした。ハッコ氏は、ヨーロッパでもっとも有名なデザイナーや服装ブランドと業務提携した最初の実業家でもある。ファッションに敏感な人たちのためにファッションショーを開いたのも彼であった。トルコで、ファッションモデルを育成し定着させ、最初のファッション雑誌とファッションフェアーの企画にも先頭に立っていた。1976年には、6人の友人とトルコ服飾デザイナー協会を設立した。
■マイナスからのスタート
ヴィタリ・ハッコ氏は、「私の人生Vakko」というタイトルの回想録で、この仕事に第一歩を踏み出した頃のことを次のように語った。「私の世代の多くの実業家は、それらの仕事をゼロから始めたとよく言っている。私は、ゼロからではない。私にスタートはゼロよりはるか下であった。
素晴らしい目的、希望、将来や自分自身への信頼、巧みに、そして才能以外、財産と呼べるものは何もなかった時代に、我々だけでどうにかやってきたのだ。我々は若い共和国の最初の世代だった。私たちを後押ししてくれたのはアタテュルクの改革であった」。
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( 翻訳者:岸田圭司 )
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