葬儀の礼拝に故人の写真を掲げることの可否―宗教学者の意見
2007年12月23日付 Milliyet 紙

最近、葬儀で棺の前に置かれる遺影が、礼拝を行うイマーム(礼拝指導者)の反発を招いている。サヴァシュ・ディンチェル氏の葬儀の礼拝が行われた時、遺影は裏返された。宗教学者たちによると、遺影が置かれることは宗教上では支障はない。「遺影は、(偶像)崇拝のような他のことを想起させうる」という人もいれば、「だめだという人を尊重しなければならない」という人も…

葬儀で棺の前に置かれる遺影が、最近葬儀の礼拝を行うイマームの反発を招いている。宗教学者たちは、亡くなった人の遺影はその前での葬儀の礼拝を続けることは宗教上で支障とはならないのを明らかにし、イマームが遺影に見せた反発の理由を「この習慣が伝統的なものではないこと」と「遺影が、(偶像)崇拝といったような他のことを想起させること」に結び付けている。

ウスパルタで墜落した飛行機で亡くなった客室乗務員ミュミネ・ブルトさんの葬儀の礼拝が行われた時、退職したムフティーのアブドゥッラー・ジハンギル氏は、祈りが始まる前に若い女性の棺の前に置かれた遺影を外した。

同じような光景は、退役海軍司令官メフメト・エミン・ギョクサン提督(80)の葬儀の時にも起こった。ギョクサン氏の遺体の前の遺影は、葬儀の礼拝の時に係りの士官によって片付けられた。最後に一昨日、舞台俳優サヴァシュ・ディンチェル氏の葬儀で、礼拝の前に遺影が裏返された。

宗教学者たちは、「亡くなった人の棺の前に置かれた遺影の前で葬儀の礼拝を行えるか否か」について次のように述べた。

ベイザ・ビルギン教授
■ 目的は拝むことではない

礼拝を行うときに遺影の場所を調整することが必要である。まさに礼拝を行う際に礼拝指導者に見える形でではなく横に置かれれば、その時は制限を受けない。罪ではないが、メッカの方向に対している時に写真がすぐそばにあると不快になる人もいる。実際には私たちは遺影を拝む目的で対することは全く無い。それは偶像を拝む時代のことです。ただ現在のところ、まだ幾人かの人々は「目がぼんやりする」、「心が落ち着かない」と言っている。皆を安心させるという点で横に置くのがより良いと思う。道を行き過ぎるときには重要ではないが、礼拝をするときに状況はこうなるのです。

M.サイム・イェプレム教授
■伝統的にはない

葬儀の礼拝の原型は神への祈りからなっている。礼拝という言葉は私たちの知っている礼拝の意味ではなく、神への祈りという意味である。宗教上の制限はない。反応を受けた点は写真に対して礼拝することが一神教の信仰に背くように認識されることから来ている。伝統的にはなかったことからでてくるものだろう。宗教上の基本的な教えの点から支障はない。葬儀の礼拝は結局のところ神への祈りである。あらゆる場所で、あらゆる状況で行われうる。

サリフ・トゥー教授
■ 尊重することが必要

葬儀で遺影が置かれるのは新しい習慣である。昔はこのようなことはなかった。遺影は亡くなった人が思い出されるようにするため、故人を知らなかった人々に「死んだ人はこんな人だった」と伝えるために置かれている。モスクで礼拝が行われる時に絵や像は配されない。偶像という意味になる。本来、葬儀の礼拝は預言者と亡くなった人のための祈りである。礼拝する時に写真を置くことはイスラム外のいくつかのことを想起させる。遺影自身を拝むことを想起させるために取り去られた。葬儀の礼拝を行う際に遺影が置かれることを罪と感じる人もいるかもしれないが、私としては罪とはいえない。私たちの信仰と抵触するなら、そして誰かが「だめだ」といったら、尊重することが必要である。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:12721 )