世俗主義と宗教の議論は、自らの足を鉄砲で撃つようなもの
2008年02月21日付 Zaman 紙

 宗務庁長官アリ・バルダクオールは、世俗主義と宗教が対立構造に置かれることに対し反感を示した。政治が宗教論議に介入すべきでないと述べる同長官は、「世俗主義と宗教の議論は自らの足に銃弾を撃ち込むようなものだ」と語った。

 バルダクオール長官はまた、「コーランにはスカーフについての記述はない」という主張に対し反論した。同長官は、イスラム教徒は1400年間、宗教的義務であるためにスカーフを被っていると注意を促し、「一部の人間が正しい知識に飽き足らず、自らに合った法的解釈を求めることは間違っているのだ」と述べた。1400年以上もの間、マレーシアからアフリカの奥深くまで、何十億の人々がスカーフを義務として認識していたことを述べ、同長官は「違う考えを持つ人もいるだろう。1400年間実行されてきたにもかかわらず、『スカーフ着用は誤解されてきた』と言う人々は、自分たちの解釈をしていればいい」とした。

 バルダクオール長官は、スター紙総編集長ムスタファ・カラアリオールがニュース24で行った、「オープンな見解」という番組に参加した。大学内でのスカーフ着用の容認をもたらす憲法改正後、メディアにおける議論が評価されたこの番組で、同長官は、誰も信仰を理由に他者に圧力をかけることはできないと強調した。また、トルコが相互の愛と敬意が払われている国であると述べ、「皆が自らの選択を自ら行うべきである」と話した。

 同長官は、「アタテュルク主義、世俗主義、宗教の議論を始めることは自らの足に銃弾を撃ち込むようなものだ」と述べるとともに、政治が宗教論議に介入すべきでないと主張した。さらに、「世俗主義は我々皆による合意である。人が『世俗主義か、イスラムか』というように区別をするのは間違いである。アタテュルク主義、世俗主義、また宗教も認めて、人は社会的な生活を営んでいくべきなのである。」

 また長官はトゥルバン(*より宗教を意識したスカーフ着用)とバシュオルトゥス(*より文化的、伝統的なスカーフ着用)の区別にも言及し、宗教が基礎のみを築いたこと、スカーフ着用の方法までは定義していないことを述べた。ヴェールとペチェ(顔を覆う黒いヴェール)が宗教的義務ではないと述べた同長官は、「コーランには頭と首を隠すようにと述べられている。スカーフ着用の様式は、人の好みや文化に任されている」と話した。

 トルコで近隣住民による圧力は存在しないと強調した同長官は、トルコの人々は敬意と愛を持っていると述べた。また宗教が週刊誌的に消費されてはならないと主張し、次のように語った。「この宗教は我々皆の宗教である。その敬意が損なわれること、週刊誌のような方法で(取り上げて)使い古すことは我々皆が嘆かわしく思っている。異なった意見を持っているといって、そういった人々をメディアに取り上げるべきではない。我々の価値が損なわれたとき、代わりとなるものはないのだ。」

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( 翻訳者:上田悠里 )
( 記事ID:13186 )