Turker Alkanコラム―AKP解党訴訟について
2008年03月16日付 Radikal 紙
公正発展党(AKP)の隠された計画があるのか?トルコを内緒で少しずつ宗教的な社会に変えることを狙っていたのか?世俗主義を破壊することを狙っていたのか?
疑いなく、このように考えるAKPの議員たちはいた。一部がまだこのように考えていることは疑いない。「スカーフを公共の場所で解禁する」と述べたヒュスニュ・トゥナ氏とファトマ・シャーヒン氏の存在は、「隠された計画」について疑いを持つ人たちの恐れを増さずして何であろう?
「共和国のイスラム化」を書き、この考えを変えていないと述べるオメル・ディンチェル氏が何年にもわたって事務次官の座に据えられ、後に議員にされたことは、この疑いを増さずして何であろう?
小学校においてさえ子供たちが「意図せずして」スカーフを着用し始めたこと、病院で医師たちがスカーフをして巡回していること、禁酒が広まったことは、世俗主義について前科のあるAKP政府に関する疑いを増やさないのか?
ビュレント・アルンチ前国会議長の「世俗主義を再定義しなければならない」という提案…
信仰篤い人物たちが官僚組織の一員となること…
特に最近の選挙の成功が与えた自信によって「世俗主義」の観点から疑いを起こしうる試みが増えたこと…
しかし、これら全ては、AKPが「世俗主義に反する行動の拠点になった」、世俗的な共和国にとっての危険を形成するという意味になるのか、それについてはっきりしたことを言うのは難しい。「拠点」と「危険」という言葉の定義の仕方により意図する所は変わる。
このような訴訟が起こされることは勿論民主主義の観点からは恥であり、トルコのイメージを傷つけ、私たちを政治の観点から10年後退させる。このことは疑いない。昨日出された新聞のほぼ全てが「あーもー、この程のことを起こせるのか、このような訴訟も起こせるのか?」という論調であった。「司法の権力」について語った。
語ったが次のことを問う者はいなかった。ナスレッティン・ホジャの物語で簡潔に説明されているように、この問題において泥棒は全く罪がないのか?自分たちにゆだねられた権力の地位を世俗主義の底抜きをするのに使う人たち、「するな、するな」という人たちを無視する人たちには、全く責任がないのか?
私はAKPの解党を望まない。この国で世俗主義を廃することが(歴史的、社会的、経済的な理由で)AKPの身の丈を超えること、隠された計画があろうとも、政権の座に就こうとも、これの実現には力が十分でないことを信じる。
AKP解党の判決は出されうるのか、出たとしたら何が起こるのか?
選挙で高得票を得て2回目の単独与党になった政党の解党はわずかな可能性であろうとも、可能である。この場合、政治活動を禁止されなかったAKP党員は新しい党首のもとで(A.シェネル氏?)、新たな政党の体制下で活動を続ける。
私は「AKPの解党は票を増やす、AKPを強化する」という意見にも賛成しない。福祉党(RP)の解党はAKPを強化しなかった。AKPは、福祉党の路線から離れ、世俗的な路線を取り入れたと主張し、「宗教を参照するものとして認めない」と述べ、(過去の)遺産と衣装を拒みながら強くなった。RPの後継政党は至福党(SP)で、その状況も明らかである。解党させられた、不正を被ったと主張する政党の票が増えるとするなら、SPの(福祉党元党首エルバカンの明確な支持によって)票が激増せねばならない!
解党されれば、AKP内部で損得勘定が生じ、分裂して増加することが論点となりうる。
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:13365 )