ジュムフリイェト紙主筆の人生、拘束と拷問とともに
2008年03月22日付 Milliyet 紙

エルゲネコン・テロ組織についての調査により拘束されたイルハン・セルチュクは、1925年にアイドゥンで生まれた。1950年にイスタンブル大学法学部を卒業した。弁護士、印刷業、雑誌・新聞の編集者といった職に就き、1952年に「41半」という名前のユーモア雑誌で最初の記事を書いた。セルチュク氏は1963年から最近まで、ジュムフリイェト紙で月曜日を除く週に6日「窓」というコーナーで記事を書いている。セルチュク氏は同時に新聞の編集長も務めている。
セルチュク氏は「3月12日書簡(1971年)」の後に拘留されていたズィベルベイ邸でひどい拷問を受けた。その日々を「ズィベルベイ・キョシュキュ」という本で綴った。本の裏表紙で「3月12日事件の時、エレンキョイにある、ズィベルベイの、ズィベルベイ・キョシュキュとして知られるズィフニ・パシャ邸に、ファイク・トゥルンとメムドゥ・ウンルチュルクの命令で拷問所が設けられた。この拷問所ではたくさんの知識人が陰謀の餌食となっていた」と述べている。

■ファラカ(足裏を打つ拷問)の記憶がよみがえった
セルチュク氏は、本の中で経験した拷問を次のように説明している。「目隠しをされ何も見えませんでした。何人かが私を地面に倒し、靴下を脱がせました。足首を棒で打たれました。かなてこやスクリューが押し付けられたように感じました。足を動かすこともできなくなりました。油か液体か分かりませんが、なにかを私の裏に塗り、その後太い棒を置いて去っていきました。
痛みに耐えることができたと思います・・・しかし、ファラカによる痛みは、どんな痛みとも比べようがありません・・・骨にひびく痛みです。始めは叫び声をあげないように我慢しました、歯を食いしばっていました。しかしその後我慢も限界となりました。なぜなら、どれだけ我慢しても声を抑えることはできないのです。
まずは唸り声を出し始め、その後泣き声になり、獣のようになります。拷問にはさらに精神的なダメージがあり、それは肉体的痛みよりはるかにひどいものです。自分の尊厳が失われていくのを感じるのです」。

■民族主義者行動党(MHP)への賞賛が大いに議論された
セルチュク氏は先の総選挙の前に、公正発展党(AKP)政権に対し強い反対をしたとして民族主義者行動党(MHP)を賞賛した。批判されると、「世俗主義のアタテュルク共和国全体のため、かつて私に拷問をした者たちと今協力することは祖国を愛するための必要条件だと思っています」と述べた。しかし、MHPがスカーフ問題についてAKPを支持すると、賞賛の言葉を撤回し、MHPにたいし「民族主義といった類のものではありません。アメリカ主義に居座っています。AKPから支配の一部受任者となることへの強い望みがあり、AKPの追従者になっている」と言い、強く批判した。

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:13411 )