『ラディカル2』(日曜版)掲載
よくは存じ上げないのだが、音楽史上、1989年に没したオーケストラ指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンほど議論された人間が他にいるだろうか?彼は生前、単に彼が創りあげる音楽についてのみならず、並外れた野心や、ワンマンぶり、全てを音楽に捧げたことと共に、留まるところを知らないエゴについても議論されたのだった。
私生活でも人々の注目を一身に集めたカラヤンは、オーケストラの指揮者ではなく、映画スターのようだった。ヨーロッパ最高レベルのアマチュア・スキーヤーのひとりであることや、いくつものスポーツカー、自らが操縦するプライベート・ジェットは、彼の生涯の注目を引く別の要素であった。
カラヤンが議論される、そして生前そうであったように没後でさえ彼に影のようにまとわりつく、また別の要素は彼がナチスの党員であったことだ。
まったく、昨今は、1908年4月5日に生まれた芸術家の生誕100周年のために、またも似たり寄ったりの論争の舞台となっている。音楽業界の巨大メーカー各社は、彼の音源から構成されたCDや全集の準備を整える一方、音楽雑誌は彼についての論評記事を掲載している。議論されるのはといえば、全く変わるところはない。つまり、彼の芸術、彼のひととなり、そして、彼がナチス党員であったことだ。
■ナチス、カラヤン、そして倫理
芸術と、芸術家個人の倫理的側面、特に既存の体制との関係は、トルコの知識人にとっても他人事ではない。こういった側面は、権威主義―全体主義的体制下で、あるいは、尋常ではない時代状況の下で、より表面化するものだ。歴史に鑑みると、これが最も明確に表面化した場所のひとつこそが、ナチス・ドイツである。芸術家のなかには思想や民族的出自のゆえに抑圧に遭い、国を逃れねばならない状況に置かれ、ひいてはナチスの強制収容所でその命を失った人々もいた。その一方で、ナチスの支配に様々な形で協力し、ナチスの体制を保証するような機会を自らの個人的利害のために利用した芸術家たちもいた。音楽界に限って述べてみても、ナチスと関係があった芸術家のなかには、リヒャルト・シュトラウス、カール・オルフといった作曲家たちや、カール・ベーム、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった指揮者たちや、エリザべート・シュヴァルツコップといった声楽家たちがいた。例えば、ナチスのプロパガンダ映画に出演し、パリでのドイツの占領軍向けのコンサートで歌ったシュヴァルツコップは、ナチス党員でもあった。党員ではなかったベームはいえば、ウィーンでのコンサートにおけるナチス賛美によって歴史に名を残した。
カラヤンも、ナチスと関係をもつ芸術家の一人であった。ナチスが台頭してきた時代に音楽家としての人生を歩み始めたカラヤンは、1930年代初頭以降、ナチスの活動に様々な形で協力していた。ナチス党員であったカラヤンは、様々な行事にも参加した。1935年の党記念日の祝典では野外コンサートで舞台を務め、占領下パリではドイツ軍向けコンサートを幾度も指揮した。その過程で、カラヤンと、音楽史上の伝説的指揮者のひとりであるヴィルヘルム・フルトヴェングラーとの間にはライバル関係、敵対関係が生じた(参考:映画『テイキング・サイド』/監督イシュトヴァーン・サボー)。ナチス首脳のうちゲーリングは、ゲッベルスが支援するフルトヴェングラーに対抗するためにカラヤンを利用した。カラヤンが、後になって、フルトヴェングラーの亡くなった日が彼自身の生涯で最も幸福な日だと述べた、とも噂される。カラヤンは1946年の裁判と贖罪の過程で、キャリアを向上させるために入党したこと、音楽監督といえども政治的式典を音楽的に下支えした責任は免れえないことを証言した。もちろん、事件は見ようによっては芸術家のキャリアを向上させることを目的とした便宜主義だと結論づけられるかもしれない。しかし、別の見方をすれば、彼の芸術的思考がナチスの文化政策のいくつかの要素と共鳴し、このような政策がドイツに文化的安定をもたらすだろうと彼が考えたことも、またその通りだろう。ナチスとより距離を置き、カラヤンよりもかなりナイーブな性格の持ち主であったフルトヴェングラーは、より名声を得ていただけに、裁判の過程をカラヤンよりも苦痛に満ちて過ごしたのだった。カラヤンは戦後、ナチスとの関係のために1947年までそのキャリアに空白を設けねばならなかった。1954年にベルリン・フィルと共に実現したアメリカ・ツアーではいくつもの抗議活動に遭った。彼は、折にふれ、自らが政治には無関心であり、音楽的な見解を抱くのみだと主張した。しかし、ナチスとの関係は生涯にわたって影のように彼にまとわりついたのだった。
■オーケストラ指揮者カラヤン
何にもましてカラヤンは非常に素晴らしい音楽家であった――これは疑うべくもない。ウルムやアーヘンといった小規模な都市[のオーケストラ]で何年にも渡ってキャリアを積み、こう言ってよければ、種から育て上げたのだった。そして、著名なオーケストラの客演を務めながら世に知られるようになり、ついにはフルトヴェングラーの没後、1955年にベルリン・フィルの終身首席指揮者に迎えられたのだった。カラヤンはこのオーケストラを世界最高の楽団のひとつにし、また自身の頭の中にある完璧さ[→完璧な音楽]を具現化するための楽器にしたのである。彼は、それと並んで、その他数多くのオーケストラや音楽祭の音楽監督を任されることとなった。こうして、こういう言い方が相応しいなら、音楽的な帝国を打ち立てたカラヤンは、エスプリをきかせて「ヨーロッパの総音楽監督」と称されたのだった。音楽家の地理的に広範囲におよぶ影響力については、こんなユーモア溢れる話がある。カラヤンがタクシーに乗ると、運転手は行先を尋ねたそうである。カラヤンはというと「どこなりと、貴方が行きたいところへ」と言い、こう続けたのだそうである。「たとえどこへ行きましょうとも、私がやることはひとつですから・・・。」生涯、完璧さを目指して邁進したカラヤンは、自らの理想を、「トスカニーニの毅然さと明瞭さとを、フルトヴェングラーのファンタジーと一体化すること」だと語っていたのだが、次第にこの組み合わせはファンタジーとは逆に発展していった。彼の音楽や精神的次元は、イマジネーション、深みといった観点でフルトヴェングラーと比較してみると、その状況は明らかである。カラヤンが、死後、音楽的時間が自らに逆らうように、フルトヴェングラーに寄り添うように流れたことを知ったなら、まったく留まるところを知らない彼のエゴは傷つけられ、自らのライバルが復讐を果たしたのだと考えることだろう。しかし、こうした完璧性も過小評価されるべきものでないことは疑うべくもない。彼には、彼が残した、またその中には並々ならぬ名演も含まれる800以上の音源によって、留まるところを知らない彼のエゴに相応しい音楽史上の地位が今後とも保証されている。
■どうすべきか?
芸術家は、芸術と倫理について思索することを決して放棄すべきではない。思索の過程で戒めとしてカラヤンを聴くことが、まさにお勧めである!
我々が『ラディカル2』の読者諸兄にお勧めできる数多くのCDの中には、ベートーヴェンの各交響曲の1961-62年の音源や、マーラーの交響曲第9番、ブルックナーの交響曲第8番といった並外れた名演の音源、そして、「女はみんなこうしたもの」や「ばらの騎士」、「ファルスタッフ」をはじめとした数多くのオペラ音源がある。ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」のカラスとカラヤンによる海賊版音源は、2人の偉大な芸術家の普段ならありえない共演が音楽界にもたらした偉大な賜物である。
彼の罪や報いに応じたカラヤンについての最後の審判は、時を経て歴史が下すはずである!
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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13552 )