モタッハリーの遺産:ゴラームアリー・ハッダード=アーデル(5)
2008年04月28日付 Jam-e Jam 紙
西洋世界に対する今日の言説
今日の我々が西洋に対して有している根本的な問題は、以下のようなものである。宗教は単に信仰上の事柄なのか、個人的で心に関わる事柄なのか、それとも社会問題に積極的に関わるものなのか。宗教は国家を持つのか。統治に対して何らかの見解を有しているのか。宗教は何らかの経済的な規定のようなものを持つのか。戦争と平和に対して見解を有しているのか。社会における人間の尊厳の一つであり、西洋リベラリズムでは神聖不可侵で絶対的なものとして捉えられている自由というものは、宗教において自らの占めるべき場所を持つのか。
イランや世界各地で世俗主義を弁護し促進している人々が、学問的観点から宗教に関して有している理解は、宗教から理性を排除することを、その隠れた本質としている。つまり彼らはまず、宗教を非理性的な現象として提示し、そのような宗教の定義からの当然の帰結として、世俗主義を導き出すのである。しかしもし我々が宗教の持つ諸定理を評価する際に、理性という基準を活用することができる、そういった制度であると宗教を理解するならば、このような制度は世俗主義〔の宗教理解〕とは一致しない。
宗教の定理が個人的な感情にかかわる定理ではなく、現実を志向するものだと言われているのも、このためなのである。
私がもし緑色や青色が好きだというなら、ある内的な感情・傾向を表現していることになる。しかしそれは、あらゆる人間が同じような傾向を持つ原因となるような、緑色という色における何らかの現実を証明するものではない。恐らく私が好きな色を嫌う人もいるだろう。
もし何かが単に心に関わる事柄、信仰上の事柄、個人的な事柄にすぎないとすれば、それはその人自身に属する問題だということになる。別の人が別の色を好むとしても、やはりそれは彼自身の好みの問題に属する。このように、感情の世界や心理的傾向の世界では、相違や矛盾は当然のこととして理解されてしまうのである。
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( 翻訳者:小野彩 )
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