コラム:アル=ナハール紙創刊76周年の歩み
2008年08月05日付 Al-Nahar 紙

■ 『アル=ナハール』紙、創刊76周年を祝う

2008年08月05日付アル=ナハール紙(レバノン)HP1面

 『アル=ナハール』紙は昨日、創刊76周年を迎えた...。いや、我々の心情としてはむしろ、第23429号の発行を迎えたと言いたい。なぜなら、本紙の創刊以来全ての号は、その展望と論旨の全てにおいて、憲法の定める自由と権利の防衛の記録であったからだ。

 憲法は我々にとって、1933年8月4日に本紙を創刊したジュブラーン・トゥワイニー(父)の時代以来、単なる「冊子」や法律や文書ではなく、生活、統治、政治、人文における一つの道筋に対する信念の偉業とみなされるものだった。

 こうして本紙は、創刊以来の歴史のどの段階においても、立憲統治のための、すなわちフランス委任統治に対する独立のための闘争の記録台帳であり続けた。そして、妨害や裁判や押収などの懲罰を受けてきた

 そして1943年は本紙の最大の決戦の年であった。ビシャーラ・アル=ホーリーが大統領に就任し、リヤード・アル=スルフを首相に選出するに到ったプロセスにおいて本紙は旗手の務めを果たしたのである。スルフ内閣は憲法を委任統治による制約から解放するため、憲法の改正を決定した。そしてフランス側が大統領、首相、閣僚および議員たちを逮捕した後も、本紙は戦いをつづけた。

 本紙は独立後の体制を支持したが、そのことは、1949年に体制が議会に対して大統領再任のための憲法改正を促したとき、ホーリー大統領とスルフ首相および議会で両氏を支持していた創刊者[ジュブラーン・トゥワイニー]の同志たちに反対姿勢をとることを妨げるものではなかった。

 ホーリー大統領は本紙の社主をアルゼンチン駐在大使に任命したが功を奏さず、本紙は反政府姿勢をとりつづけ、やがてジュブラーン・トゥワイニー社主が逝去し、現社長[ガッサーン・トゥワイニー]が指揮を引き継いだ。ガッサーン社長はジャーナリズムにおいても議員活動においても反政府であり続け、投獄、発行停止、「職務停止処分」といった、オスマン帝国時代から野党系の新聞が払ってきた高い代償を支払うことになった。

 ところが体制の弾圧は功を奏さず、本紙は野党の論壇であり続け、1952年には「専制の崩壊まで」という、創刊以来最も激越な宣言をもってストライキを発表した。

 ホーリー大統領は辞任と、フアード・シハーブの移行政府首相任命を余儀なくされ、移行政府は議会にホーリー大統領の後継者を可及的速やかに選出するよう呼びかけた。議会はただちに、野党議員のカミール・シャムウーンを大統領に選出した。シャムウーン議員は本紙に最も近しい人物の1人であり、幾度か本紙に憲政を擁護する論説記事を書いていた。また委任統治期には、議会における憲政ブロックの最も著名なメンバーの1人であった。

 しかし『アル=ナハール』紙は、シャムウーン大統領の「アイゼンハワー・ドクトリン」受け入れに対する反対運動に始まって、ついにシャムウーン大統領までもが再任を企てるに到った経緯から「内戦」が勃発した際には、反対派に転じた。

 そしてフアード・シハーブ少将が大統領に就任したとき、本紙はレイモン・エッデ率いる野党勢力への忠誠と、初期のシハーブ体制への協調との折り合いをうまく付ける術を学んだ。エッデ氏が大統領選への立候補の姿勢を固守したため、シハーブ少将は第1回目の投票では当選に失敗していた。本紙はその後、治安機関「第2局」による圧制が激化するまでは、反政府の立場はとらなかった。シハーブ大統領はこの圧制に関与していないと主張していたが、これを抑え込むこともできなかった。

 1964年、シハーブ派がイリヤース・サルキースの大統領選出を強要しようと試みた時、本紙は、憲法擁護の名の下に戦いに臨んだ。サルキース元大統領はその時には選出されず、ジャーナリストであり法律家であるシャルル・ヘルウ氏が選出された。本紙はヘルウ氏にとって最も近い新聞であり、ヘルウ氏は本紙に最も近しい政治家であった。彼はシハーブ主義者だったにもかかわらず、である!

 ヘルウ大統領時代の特長は、ヘルウ大統領が任期延長や再任を企てず、任期の半ばで辞任を決定したことである。大統領は辞表を用意し、それに署名し、国会議長を大統領府に呼び出して辞表を手交しようとした。これによって辞任を合憲かつ最終的なものとして、辞表を議会に提示する手続きを不要にしようとしたのである。この情報を得たとき本紙は、議員一人一人と各会派にこの件を知らせ、ヘルウ大統領に辞任を思い留まらせるべく大統領府へ向かうよう助言した。大統領は国軍司令官を[暫定]首相に任命する大統領令に署名していた。首相が率いる内閣は議会が新大統領を選出するまで大統領の権限を行使することになる。そして大統領選出の如何は政府と首相の裁量の範囲である。首相が大統領の不在を望むこともあり得る...。[本紙が上記のような行動をとったのは、]独立以降の体制下で、議会がそうした事態を防ぐために模範とすべき先例が存在しないことによって、レバノンが憲政上の危機に陥ることを防ぐためであった。

 本紙はヘルウ大統領の後継者の選出期日を待たずして、スレイマーン・フランジーヤが北部の選挙で圧勝した際に、フランジーヤ氏の大統領立候補支持を発表し、大統領選挙へのキャンペーンを開始した。本紙は野党各会派の集いの場となり、時として立場の食い違う各勢力を束ねる「固き絆」となったのである。ファランジーヤ氏は1970年に1票差で大統領選に勝利し、本紙は「たかが1票、されど人民の票」という題名の社説を掲載した。

 しかし本紙のフランジーヤ大統領との関係も変転を重ねた。先ずガッサーン・トゥワイニー社長が副首相に任命され、教育相と報道相の2つの閣僚ポストが与えられた。しかしガッサーン・トゥワイニーは100日しか閣僚の座に留まらず辞任した。両省における文化的な活動や業務を担当する新しい文化省の設置など、両省の根本的かつ包括的な改革プログラムをフランジーヤ大統領に提案したことから同大統領と対立したためである。

 フランジーヤ大統領との関係は複雑化し、紛争の様相を呈していった。その頂点は、広告主に対して本紙上に広告の掲載を一切禁止するという、本紙の破産を狙った決定が下されたことであった。この企ては、本紙上に数ヶ月間広告が掲載されなかったにもかかわらず、成功しなかった。経済団体がとった立場に議会が協調し、政府が決定を撤回したのである。ところが政府はこの対決を軍事法廷に持ち越し、ガッサーン・トゥワイニーとワフィーク・ラマダーン氏を、「極秘」とされていたアラブ連盟首脳会議の決議事項を公表した大逆罪の容疑で拘留する命令を下した。ちなみに問題の記事は、決議が採択されたその日に『アル=アハラーム』紙と本紙に掲載されている。

 軍事法廷は度々開廷されたが、この危険な容疑に関する判決を躊躇した。検察は市民権剥奪を求刑していた。そのため両氏の拘留は続いたが、タウフィーク・ジャルブート判事を裁判長とする法廷が、「本件の起訴事実は犯罪ではなく過失である」として、21日間に及んでいた拘留期間の禁固で十分との判決を下した。

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( 翻訳者:平川大地 )
( 記事ID:14560 )