サーイー、メダル獲得記録を更新
2008年08月23日付 E'temad-e Melli 紙


かつて獲得した銅メダルに加え、ハーディー・サーイー選手は北京五輪で二度目の金を手にし、ホセイン・レザーザーデ選手(重量挙げ)、ゴラームレザー・タフティー選手(レスリング)、モハンマド・ナスィーリー選手(重量挙げ)らを超える、イランのスポーツ史に残る最も誉れ高い選手となった。

 〔イランの〕スポーツは、困難な日々を過ごしていた。おそらく、北京五輪ほど屈辱を経験した大会はなかっただろう。金メダルを数個は獲得できるだろうと期待されていた我が国のスポーツ選手団は、昨日の午後までレスリング・フリースタイルでの銅メダル一個に終わっていたからだ。批判は当然だった。これまで選手らの応援に専念してきたイラン国営放送でさえ、レスリング・フリースタイルでのイランの敗北に対して、これまでの姿勢を変えたほどであった。

 昨日まで「最良のスポーツ選手を抱えていながら、なぜ納得できる結果を得られないのか」との多数の疑念に直面していたイランのスポーツ界の責任者たちは、今後一層困難な日々を過ごすことになるということも覚悟していた。しかし、昨日午後の金メダル獲得により、イラン・スポーツ界は一定の落ち着きを取り戻した。

 メダル獲得のチャンスを手にした最後のイラン人選手であるハーディー・サーイー選手が、彼に向けられていた全ての批判を打ち破るように、北京五輪でイラン唯一の金メダルを獲得することに成功した。彼が獲得したこの金メダルによって、メダル獲得数ランキングでのイランの順位は47位タイに引き上げられた。とはいえ、北京五輪はイランのオリンピック参加史上、過去の最低記録43位を下回る最低の結果となった。

〔中略〕

 サーイーの金メダルがある程度、責任者たち及び彼らの立てた計画を巧みに弁明する機会を、以前よりは彼らに与えてくれるとしても、このような状況では、批評家たちが態度を一転させ、責任者たちの責任を問わないというような事態は考えづらいだろう。

 昨日、テコンドー80キロ級の決勝戦で身長196センチと他のライバルたちを大きく引き離す長身のマウロ・サルミエント選手(イタリア)が、アメリカのスティーブン・ロペス選手を押さえ、サーイーと対戦した。

〔中略〕

 第一ラウンドでは、6対4でサルミエント選手がサーイー選手より優位に立っていたが、第二ラウンドで警告を1つを受けて同点、第三ラウンドで6対4となりサーイー選手が勝利した。

 サーイーはこの金メダルによってホセイン・レザーザーデを越え、イランのオリンピック選手で最も功績のある選手となった。サーイーはシドニー五輪で銅、2004年のアテネ五輪では金を獲得していた。ホセイン・レザーザーデ選手が金メダル二つ〔シドニーとアテネ、重量挙げ世界記録保持者〕、ゴラームレザー・タフティー選手〔※イラン・レスリング界の英雄。彼の肖像画はいまでも至る所で目にすることができる〕が金1〔87キロ級フリースタイル・レスリング、1956年メルボルン〕、銀2〔1952年ヘルシンキと1960年のローマ〕、モハンマド・ナスィーリー選手が金〔重量挙げ、1968年メキシコシティー〕、銀〔1972年ミュンヘン〕、銅〔1976年モントリオール〕一つずつ、ラスール・ハーデム選手が金1〔90キロ級フリースタイル・レスリング、1996年アトランタ〕、銅2〔1992年バルセロナ。銅1の誤りと思われる。なお、彼の兄アミール・レザー・ハーデムもバルセロナとアトランタで二つの銅メダルを取っており、それと勘違いした可能性がある〕、という記録が今までのオリンピックでのイランの最高成績であった。

 サーイーはアテネ五輪でメダルを獲得した時のように、チャンピオンを獲得した競技から退くのではとも騒がれているが、今回も引退の意思はないようである。彼は試合での勝利後、イラン学生通信に以下のように述べている。
きつい試合だった。初めてこのクラスに挑んだが、自分はまわりの選手たちより少なくとも3~4キロは軽かった。しかし決勝戦では一瞬たりともミスをせず、16年間の全ての経験を出し切った。〔イラン人選手の中では〕自分は競技に出場する最後の選手だし、みんなメダルがとれていないということで大きなプレッシャーを感じていた。金を取ったが、今のところ引退はまったく考えていない。


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( 翻訳者:綿引香緒里 )
( 記事ID:14592 )