諮問議会火災への中傷報道に反論する
2008年08月31日付 Al-Ahram 紙

■ 議事堂火災・・・そしてペンの炎

【ムルシー・アッターラー本紙編集長】

08年08月31日付アル・アハラーム紙(エジプト)HP1面

 政治とジャーナリズムにアッラーの呪いあれ。もしこの2つに合法的に許された道具〔=言論〕が誤った用いられ方をし、統一の代わりに分裂を、希望と愛と人々の連帯のための橋を架ける代わりに、敵意と嫌悪と絶望と挫折の海を作り出すとするならば。

 私がこう述べるのは、諮問議会の議事堂火災について書かれたもののいくつかが、正当な批判のあらゆる境界線を越え、より危険でより醜い火災を望む域にまで達してしまったように思うからだ。それはすなわち、純粋で穢れなき心を憎しみと悪意の心に変えてしまう、精神の火災である。

 これは自由なジャーナリズムでもなければ、勇敢な視覚メディアでもない。自由なジャーナリズムや勇敢な報道というのは、共通の基本となる標題を掲げているものであり、そのうち最も重要なのは「言葉は責任」というものだ。すなわち、言葉というものは舌によって発せられる前に、理性によって制御されるべきものであり、そうすることで言葉は、イスラームのシャイフやキリスト教の司祭、ラビや予言者の服を着てあらゆる過ちや罪を行おうとする悪魔の性癖を免れえるのだ。

 自由な社会での自由なジャーナリズムとは、興奮や扇動ではなく理性と論理による多様性や対話の技法を映し出すものだ。そこにはまず、政治的対立が敵意や憎しみ、あるいは議事堂を襲った火災が国中に延焼するよう望む域にまで達してはならないという、正しい理解がなければならない。

 それは自由なジャーナリズムではないし、勇敢さの標題でもない。それは愚かな狂気の一種であり、扇動や誇張、中傷の弦を鳴らし続けることで引き起こされえる危険を理解する能力の欠如の現われだ。

自由なジャーナリズムが祖国を政治的・社会的混乱と治安の不安定という海に沈めてしまう可能性のある病的妄想の旗印を掲げ、建設と発展、批判、検証という役割から、嫌悪と脅しと失望の役割へと変わってしまうとは、全くもって残念なことだ。

 文字であれ、映像や音声であれ、言論の自由というものが、先進国を含む世界中の国々で毎日何十となく起きているような事件が起こるたびに頬を叩き、服の襟元を引き裂いて悲嘆の声を上げる機会を与えるものだと思われているとするならば、何たることであろうか。

 唯一の慰めは、偉大なるエジプトはそのような状態にはなっていないということだ。たとえ幾人かが限度を超え、あるいは極端に走ろうとも、エジプトの政治と政治家たちは広大な度量を備えており、ジャーナリズムの自由を守るとの心からの約束を継続することが出来る。

祖国の安全と治安とは、ひとつには異なる意見の尊重、もうひとつには言論が正しい道を外れないよう防ぐ能力にかかっているということを、我々全員が認識することが望まれる。エジプトは暗黒時代に決して戻ることなく、その全土の空の下で輝く自由の灯りであり続けることだろう。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:平寛多朗 )
( 記事ID:14772 )