公正発展党の身内政治―今度は公園にアンカラ市長の義父の名
2008年11月15日付 Radikal 紙
ドゥズジェ県アクチャコジャ市の改装された公園に、メリフ・ギョクチェキの義父オスマン・ギュレンの名がつけられた。
アンカラ広域市長メリフ・ギョクチェキの妻の故郷であるドゥズジェ県アクチャコジャ市で、ガーリプ・オズチュルク大尉の名がつけられた歩道沿いの新しい公園に、ここで鍛冶職人として暮らし4年前に亡くなったメリフ・ギョクチェキの義父のオスマン・ギュレンの名がつけられた。公園の開所式は明日行われる。アクチャコジャ出身のネヴィン・ギョクチェキを妻にもつメリフ・ギョクチェキ・アンカラ広域市長は、妻の故郷に地元自治体の予算で公園をつくらせた。アクチャコジャ市が、チュハッル海岸がある地区で基礎工事を行った公園に、アンカラ広域市のトラックがベンチや運動用機具、ゴミ箱を運びこみ、アンカラのシンボルである置物のアンカラ猫や遊具一式を備え付けていった。ベンチにはアンカラ広域市のマークがあり、歩道には、公園がメリフ・ギョクチェキによって作られたことを示す記念板が置かれた。
■ 公園には入り口が2つ
今回公園が作られた場所に10年前に整備された歩道には、アクチャコジャ出身で、心臓発作で亡くなったガーリプ・オズチュルク海軍大佐の名がつけられていた。さらに彼の父ジェミル・オズチュルク氏によって歩道沿いの水飲み場も作られた。今回、歩道わきの新しい公園にある水飲み場は新しく作り直された。水飲み場にはかつてと同じように大尉の名がつけられた。歩道を中心にした公園については、市議会の決定により、メリフ・ギョクチェキの義父で4年前に亡くなった地元の鍛冶職人オスマン・ギュレンの名がつけられた。公園名のプレートは公園の西口に掲げられた。この決定により、歩道の名前からはガリプ・オズチュルク大尉の名は取りのぞかれた。
■ 開園は明日
オスマン・ギュレン児童公園は、明日、開園式を迎えるが、すぐ横にある1990年代にできた旧名「ハサン・アー」公園も今回、同時に整備された。新しく作られた公園とハサン・アー公園はひとつにまとめられた。ギョクチェキの義父の名は公園の西口に掲げられ、南口には「ガーリプ・オズチュルク大尉公園」のプレートがつけられた。しかし公園の旧名は「ハサン・アー」公園であるため、開園の後、大尉の名を使うことをやめ、再び「ハサン・アー公園」のプレートを付け直すことが決定された。というのも、この土地を公園のために寄付した「ハサン・アー」の近親者たちが今回の名前変更を知り、役所に申し入れをしたからである。市役所の担当者たちは、名称変更は混乱の結果として発生したものであり、開園式ののち訂正するとしている。
■ ネヴィン婦人は望まなかったが…
公正発展党のアクチャコジャ市長ナズミ・チルオール氏は、メリフ・ギョクチェキ氏の妻ネヴィン・ギョクチェキが父の名が公園につけられることを望まなかったこと、彼女から電話があり、彼女は公園には大尉の名前をつけることを望んでいたことを明らかにし、次のように語った。
「大尉の父はアクチャコジャ出身ですがイスタンブルに移住しました。彼自身も海軍士官だった同郷人です。大尉が船で亡くなると、友人たちが大尉の為に水飲み場を作ったそうです。そして殉職者(シェヒット)と書かせました。私が市長になったとき現在のようなきちんとした歩道はありませんでした。我々はこの一帯に新たなプロジェクトを企画しました。海岸の砂がここまできていましたので、それを食い止めるために堤防のようなコンクリートの壁を築きました。特別な石で歩道を作りました。緑地も作りました。アンカラ広域市の緑化局から特別な木を買い、植えました。倉庫にあった使われていない子どもの遊具やベンチを買い取り、そこに置きました。ガーリプ・オズチュルク大尉の故障した水飲み場を撤去し新品を設置しました。しかし、名前は変えませんでした。
今申し上げましたような取り組みの後、我が市に経済的な援助をし、建設事業に賛同してくださった方の先祖の名前をここに掲げたのです。私たちの方から提案したことです。私たちに援助してくださっているので、「公園の名前をメリフさんの名にしよう」を提案しました。しかし「絶対にダメだ」とおっしゃいました。さらに、私たちは、メリフさんの奥さんのお父さんの名前を公園の南向きの場所に書くつもりでした。そのときネヴィン夫人から我々に電話があり、「父の名を書くのはおやめください。そこには殉職なさった大尉の方がいらっしゃったそうですから、その方のお名前を使ってください」とおっしゃったのです。公園の入り口の大尉の名前はネヴィン夫人のことばに従って書いたのです。」
■ 大尉の名は公園から取り外される
チルオール市長は、大尉の名をつけた公園は後日「ハサン・アー」の名に変更されると述べ、説明を続けた。「市議会で、この公園の名前は以前から『ハサン・アー公園』であったという声がありました。調べてみると、以前の議会でそこの名は「ハサン・アー公園」と決定していました。我々も殉職者大尉の名はそこから外し、ハサン・アー公園としてプレートを付け替える予定です。」
■ かつての開園式で撮影された写真を調査
ギョクチェキ氏の義父の名がつけられたこの公園で、大尉の名はもともと水飲み場のみであったと主張するチルオール市長は、約10年前歩道の開園式の際に撮影され、前国民教育大臣アヴニ・アクヨル氏と当時の市長エロル・ソラク(祖国党)氏が「ガーリプ・オズチュルク大尉歩道」と書かれたプレートの前で撮った写真を見せられると、次のように釈明した。
「私が市長になったときには絶対にこのようなプレートはありませんでした。市当局はその市の重要人物の名前を使うことができます。もともと彼は我々の同郷人です。我々がこの市の行政を行うようになったときには水飲み場だけがありました。このプレートはありませんでした。このようなプレートは見ませんでしたし、文書でも目にしたことはありません。私より前の市長たちにも聞きましたが、そのような文書はなかったとのことです。大尉は我々の同郷人です。しかし殉職者ではありません。とはいえ、私の考えでは全ての兵士は殉職者です。そのようなわけで水飲み場や今の公園の名前に殉職者という言葉を使いました。」
■ 旧名は議会で決まった
前アクチャコジャ市助役のスアト・マデンジ氏は、議会の決定によって大尉の名がつけられたことを明らかにした。「ずいぶん以前のことですが、そういう決定が出たんですよ。そもそも議会の決定抜きにそんなことできません。議会の決定が出たから名前がつけられたんです。そのときは申請があって、請願書も提出されました。それが議会にきて決定が出されたんです。当時、歩道を作ってほしいという要請がありました。議会が決定を出した。議会の決定なしにはどんな通りにも名前をつけることはできませんからね。」
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( 翻訳者:杉田直子 )
( 記事ID:15132 )