ギュル大統領、私の家系は何世紀にもわたりトルコ人で、ムスリムである
2008年12月22日付 Zaman 紙
アブドゥッラー・ギュル共和国大統領は、共和人民党(CHP)のイズミル選出の国会議員であるジャナン・アルットゥマン氏が話題にした、民族的な出自に関連した主張に対し、書面による声明で返答した。
ギュル大統領は以下のように述べた。「カイセリを地元とする母方のサトウル家と、父方のギュル(ギュルキマーム)家の血筋からなる我が家系は、何世紀にもわたり記録に記されたムスリムでありトルコ人である。このことについては、我が家族の昔から現在まで(続く)、綿密に書かれた家系図と、現存する正式な出生記録簿、そしていままでわれわれと歴史を共にしたカイセリに暮らす同胞たちが証人です。」
(そもそもの自身の出自に関する)主張を、「共和国大統領選挙の過程で話題にされ、陰湿な形で広く周知されるよう努められた嘘である」として特徴付けた同大統領は、声明を「真実の名の下、歴史に事実を残す」ために行ったと明らかにした。共和国大統領府報道センターで発表された声明で大統領は、帝国の継承者であるトルコにおいて、「多様性を豊かさとして見ている」とも強調した。(そして)すべての人の民族的出自や、異なる信仰、そして家族の繋がりに敬意を払っていることを指摘した。
CHP党員であるアルトゥマン氏の、共和国大統領の家族に関連した不適切な発言は、自身の政党を含んだすべての層の反感を買った。しかし後に引かない同氏は、(同じ)主張を昨日(22日)も述べ、国家・祖国を守ることを主張した。これを受けて、2度目の文書による声明を行ったギュル大統領は、主張を偽りであるとした。大統領は、以下のように述べた。
「共和国大統領に選ばれる過程で非常に計画的に、またここ最近一部の人々が日に陰に広めようとしている嘘を正し、そして真実の名の下に歴史に事実を残すために家族に関して皆様に公表する必要性を感じました。このように、カイセリを地元とする母方のサトウル家と父方のギュル(ギュルキマーム)家の血筋からなる我が家系は、何世紀にもわたり記録に記されたムスリムでありトルコ人である。このことについて、我が家族の過去から現在にまで至る、綿密に書かれた家系図や、現存する正式な出生記録簿、そしていままでわれわれと歴史を共にしたカイセリに暮らす同胞たちが証人です。」
家族が行った調査によると、ギュル大統領の母方(サトウル家)の先祖は、15世紀に生きたイブラヒム・テンヌーリーにまで遡る。(カイセリにある)エルジエス大学から出た、ムスタファ・ケスキン教授の『トルコ語を洗練させた有識のリーダー、シャイフ・イブラヒム・テンヌーリー』という名の研究では、以下のような情報が書かれている:「シャイフ・イブラヒム・テンヌーリーは、スィヴァスで生まれた。学究生活のほとんどすべてをカイセリで過ごしたため、カイセリ出身として知られている。マドラサ(イスラム学院)の教授であり、神秘主義者である。単にカイセリだけでなく、同時にオスマン帝国でもよく知られた有名人である。シャイフ・イブラヒム・テンヌーリーが、ホジャ・アフメト・イェセヴィ(アフマド・ヤサヴィー)の伝統の熱心な継承者であったことは、教育・指導をトルコ語でおこなったことから理解される。」
ギュル大統領の父方はというと、セルジューク朝の時代にカイセリで作られた初めてのモスクであるギュルルク・モスクの長年の管財人であり、イマーム(礼拝指導者)をつとめたという。このため、『ギュル・イマームザデレル』もしくは『ギュルキマーム』という(姓)で知られている。(共和国期に)姓名法が制定されると、『ギュル』という姓が、戸籍担当者からこの根拠により与えられたという。
■ 母方の家系図は15世紀まで遡る
ギュル大統領の母、アデヴィイェ婦人の記録にある先祖は、15世紀にまで遡る。家族が提示した系譜はサッラフ・ヒュセイン・エフェンディまで及ぶ。ヒュセイン・エフェンディの息子であるシャイフ・イブラヒム・テンヌーリーの没年が1482年として知られている。ギュル大統領は、共和国大統領選挙の過程における類似した中傷キャンペーンに対し、「トルコ人であるかどうかが問題であれば、私のように、7つといった短い血筋ではなく、77もの血筋がトルコ人であることを証明しうる人物はほかにいないだろう。誰が何を言おうと、系譜をこれほど深く根ざしたものとして提示できる他の人物はいない」と述べたという。
(以下、現記事掲載の家系図省略)
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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:15389 )