■ハンチントンとマルクス―ニューヨークからガザへ!
2009年01月13日付アル・アハラーム紙(エジプト)論説面
【寄稿:ワヒード・アブドゥルマジード博士】
「文明の衝突」論の主であるサミュエル・ハンチントンは、この「衝突」にさらなる火を注ぐイスラエルの野蛮な攻撃が始まるわずか3日前に他界した。あらためて彼の論の正しさを確証したツィピ・リヴニ・イスラエル外相の言葉を聞くだけの猶予を、運命は彼に与えなかった。リヴニ外相は封鎖下の非武装民間人に対する過剰に野蛮な攻撃を、「自由世界の価値の勝利」と表現したのである。
ハンチントンの論の正当性が証明されたのはこれが初めてのことではない。ある理論の提唱者が存命中に、予想した通りに出来事が続いて、自分の論の正しさが証明される事態に出くわすことは稀にしかない。だが「文明の衝突」論を含んだハンチントンの本が出版されてから、「信仰と背信」の2つの陣営の衝突というスローガンのもと、9月11日の攻撃が起こるまで5年とかからなかった。そして「我々に味方しない者は敵である」というスローガンのもと、テロに対する戦いがそれに続いた。
これらの「2陣営」は、諸文明の衝突という枠組みにおける最大の闘いはイスラーム世界と西洋世界の間に起こるという、ハンチントン理論の本質を体現したものにほかならない。ハンチントンはこの2つの世界の中に、現代の8大文明ブロックのうち最も拮抗しあう2つの文明があると見た。
文明の衝突論とは、人々が文明的・文化的・宗教的帰属ごとに分裂するという、新たな時代に世界は入ったのであり、その分裂は今後さらに深く激しくなるとする理論である。ハンチントンの意図は、この分裂こそが、国民国家の成立以来はじめて、国際関係を左右する主要な指標になるという点にあった。
そしてこれこそが、一時は最も正しいと思われた〔フランシス・フクヤマの〕「歴史の終わり」論が失墜した今日、世界的な相互作用の中で主な方向性として浮上していることなのである。しかし、ハンチントンは彼の理論がフランシス・フクヤマの表層的な理論より奥深いのみならず、旧ソビエト連邦崩壊後の1990年代初頭に形成された現実により近いことを当初から確信していた。
従って、時とともに言及されることが少なくなるであろうフクヤマの本(『歴史の終わり』[原題:The End of History and the Last Man]) と違って、歴史はハンチントンの論文や著書を、歴史上のエンブレムとして記録することであろう。世界は本当に文明の衝突の時代に入ってしまった。この時代は、イデオロギーが国際関係を動かす一番の動力であった時代にイデオロギー闘争と結びついていたものよりも強力で、広範な動員を引き起こす、衝突の災いが人々を待ちうけていると警鐘を鳴らしてハンチントンがこの世を去った後も、しばらくの間続くことだろう。
ハンチントンの理論が彼と共に死ぬことはない。彼の死に際してそのようにコメントし、「ハンチントンと共に彼の思想も死ぬことを望む」と発言した何人からのアラブ人が望んだのとは裏腹に。これらのアラブ人たちはハンチントンの思想の理解を誤ったのだ。彼ら以外のアラブ人達が、ハンチントンが彼の理論を提示して以来、その思想の意味の把握を誤ったのと同じように。ハンチントンは文明間の衝突を提唱したのでも、望んだのでもなく、イデオロギー闘争終焉後の世界情勢の分析結果から、文明間の衝突を予言したのである。従って、ハンチントンは衝突の提唱者ではなく、むしろ彼は1957年の軍と民間との関係に関する著書第1号から、2004年のアメリカのアイデンティティに関する最後の本にいたるまで、深遠で論争を引き起こす論調で知られた学者であった。
ゆえにハンチントンは例えば、階級闘争の理論を提唱すると同時にそれを呼びかけ、階級闘争勃発のための行動を扇動したカール・マルクスとは異なる。マルクスは歴史を様々な独断によって説明し、僅かな論証・依拠を用いてその理論に基づく世界の未来のシナリオを描いてみせたが、階級闘争論はもはや、2001年のニューヨークから2008年のガザに至る出来事の理解の助けにはならず、文明の衝突論にこそそれが出来る。
しかし、両論の違いはそれだけに限らない。ハンチントンは彼の理論を、まだ文明の衝突がこのような速さでイデオロギーの衝突にとってかわるという有力な指標がない頃に提示していたのである。従ってハンチントンには、他が予見しなかった頃に、彼だけが迫りつつあると予見できた[文明の]衝突の危険に注意を向けたという功績がある。一方マルクスはといえば、先進ヨーロッパ諸国では誰の目にも明らになっていた階級闘争を生んだ、第1次産業革命の時期に彼の理論を提起した。そのことがマルクスに社会主義-共産主義の勝利を確信させたわけだが、それは彼が完全に偏向した立場から自身の理論を打ち出していたためであり、さらにいえば、彼自身が世界の労働者に団結を呼びかけ、この闘争に深く関わっていたためなのだ。ハンチントンが客観的な立場から自身の理論を提唱したのとはそこが違っていた。
(後略)
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( 翻訳者:平川大地 )
( 記事ID:15638 )