■ イスラーム法による統治の問題(3)
2009年02月08日付アル・アハラーム紙(エジプト)論説面
【ラガブ・アル=バンナー】
イスラーム法適用のスローガンを掲げ、政権獲得を追求するのは全ての法律がクルアーンとスンナ[預言者の慣行]に適った統治をうち立てる目的のためだと言う人達は、「それでわれは、凡ての事物を解き明かす啓典をあなたに下した」[クルアーン16章89節]という至高なる神の言葉を繰り返し持ち出しては、クルアーン中には社会や個人が生きていくために、また正しい統治をうち立てるために必要な、全てのものが含まれていると強調する。
彼らは大イマーム、アブドゥッラフマーン・ターグ元アズハル総長がその著書『イスラーム法に則った政治とイスラーム法学』で明らかにしたこの聖句の真の意味を、無視あるいは知らないふりをしているのだ。「凡ての事物を解き明かす啓典」とは、クルアーンがあらゆる出来事の詳細を網羅し、逐一判断を明文化していることを意味しない。クルアーンは、各々の法律や制度が従うべきあらゆる原理や原則を網羅している。その原理原則とは、公正を実現する義務、抑圧からの解放、損害の回復、権利保護、所有権保護、重要な事柄については専門家に任せるといったようなものである。アズハルの学者達やイスラーム法の法学者、世俗法の法学者が、生活のある面における専門家であるとするならば、金融、経済、科学、社会学の学者達もまた、私たちの生活の中で重要な他の面における専門家なのだ。したがって、法律の準備をイスラーム法学者に限定することは、望ましくない結果につながる。
つまりこの聖句の意味するところは、法律はクルアーンの文言や真正なスンナに反してはならないということであって、法律がこの二つの内容に限定されることを意味しているわけではない。なぜなら至高なる神は、人間に理性を用い、公共利益に従って活動することのできる、広大な領域を残したからである。この世に新たに生じた疑問や問題については、ターグ師が定義した原則以外には制限されることなしに、生活の問題を規定する法律を求めてよいのである。
ところが政治的イスラーム潮流の人達は、それとは違うことを口にする。彼らは全ての法律が、クルアーンとスンナから構成されなければならないと主張するのだ。だが、クルアーンやスンナを模範として、例えば交通法や海上交通法をどのように用意できるのかについて、彼らが語ることはない。この二つのような例は、クルアーンが下された時代にはなかった活動内容を規定する法律だ。それにもかかわらず、立法者の中にはイスラーム潮流に迎合して、ある時、海商法を提出するにあたり、この法律はイスラーム法から世俗法を導き出す法解釈の最初の成果であると発表する者たちがいた。彼らは世俗法の法学者であるムスタファー・ムルイーが発した、次の注意を聞こうとはしなかった。「そうした主張はイスラーム潮流の機嫌をとるための試み以外のなにものでない。なぜなら、大陸間を周遊する船が現れた近代まで、海商の問題は重要性を持たなかったし、それを規定する必要もなかったからだ。また海商法は民法と商法という二つの法の一部門にすぎなかったため、20世紀以前には、法学者に問題提起されることもなかった。立法者が大本となる規定を作る前に、その中の一部門の規定を作るとは、非論理的だ」。この指摘は、この時代以前には必要とされず、初期のムスリム達には提起されていなかった多くの法律に当てはまる。もちろん法律はクルアーンや真正なスンナの規定に反してはならないし、結婚、離婚、相続等に関わる法律のように、イスラーム法の原則から導きださなければならない法律もある。
大半のアラブ国家で採用されているエジプト民法典の予備資料や、民法の父、アブドゥッラーズィク・サンフーリー[訳注:エジプトの法学者で1949年に西洋法の導入を大筋で認めるエジプト民法典を起草]が書いた序章を読めば、サンフーリー博士が準備に20年かけた法典が、その規定のごく少数を除いて、イスラーム法に反していなかったことが確認できるはずだ。しかもその大半は、後に修正されている。サンフーリー博士が徹底してイスラーム法に忠実であり、国際社会の舞台でもイスラーム法を擁護したことはよく知られている。1971年に発布された憲法で、世俗法はイスラーム法の原則に従う義務があるとの憲法第2条が制定された後、破棄院〔=日本の最高裁に相当〕の総会で現在の民法典の検討が行われ、憲法第2条の条文に一致するかどうか、他の違う法律に取り替える必要があるかどうかの議論が始まった。議論の後、司法の最上位に位置する破棄院の総会は、長い議論を経て制定され、その付帯文書にはイスラーム法学からの多くの根拠が記されていた民法を破棄する必要はなく、いくつかの条文の修正で十分であると結論づけた。ムスタファー・ムルイーはこのことに触れて、「権威ある機関から出されたこの権威ある言説は、異なる意見を持つ者たちに対し、イスラームをゲームのカードにしてはならないということを悟らせるものである」と述べた。そしてムスタファー・ムルイーは、政治的イスラーム潮流に呼応する者達に対しては、ただこの聖句を送るにとどめた。「知識があなたに下っているにも拘らず,かれらの願いに従うならば、アッラー以外には,あなたを守る者も助ける者もないであろう」[クルアーン2章120節]。
政治的イスラーム潮流の人達は、曖昧で一般的なスローガンを大声で広めているが、テクノロジー、科学、情報における変化に対応する重要性を理解していない。そのためには、ナフダ(文芸復興)の基礎となる新たな知的運動が求められているのだ。ナフダとは、我々の思想や文化の根本から切り離されたものではなく、過去・現在・未来と相互に影響を与え合うことなのであって、程度の問題ではあるが、過去だけにとらわれることではないのだ。
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( 翻訳者:平寛多朗 )
( 記事ID:15921 )