コラム:「国家」の必要性-ソマリア海賊問題によせて
2009年03月12日付 al-Hayat 紙

■ 改めて「国家」の役割を要請した二つの世界的事件

2009年03月12日付・紙(イギリス)HPコラム面

【ムハンマド・ジャービル・アル=アンサーリー】

世界は、「国家としてのソマリア」が瓦解するのを座視していた。そして海賊を捕まえるのだという。全長約4千キロのソマリア海岸とアデン湾に海賊が現れたことに乗じ、いくつかの国際勢力が、その戦略上重要な区域に進出しようとしている。海賊に対抗し国際航路を保護するためとして、彼らは海軍部隊派遣を主張する。しかし、海賊の出現、彼ら(大部分が崩壊国家の海の男達)がそのような行為に走る根本要因は、この国家崩壊であると思われる。

もしソマリアで、責任を負える堅固な国家が維持されていたら、海賊達はその海岸を出発できなかっただろう。いずれにせよ「国」が存在していた時にはそのような事は起きなかった。国家として機能していれば、どんな「国」でもそのような事は起こさない。

紅海付近に関心と影響力を有する国々を筆頭に、全世界はソマリア国家の崩壊をただ見物していた。最初の攻撃で合衆国はさっさと撤退し、エチオピアの直接的軍事介入も失敗している。アジスアベバは、機能しえる現地政権代行機関を用意することによりソマリアに空白を残さないと言いつつ、結局は自国の撤退を決定した。国連安保理は国際軍をソマリアへ差し向けたが、その後の展開は現地反体制勢力に有利となり、彼らがその「空白」とそれに伴う混乱を支配する事になった。

ソマリア建国以来、外国軍の直接介入は失敗に終わる事が証明されている。合衆国然り、エチオピア然り。一方で、ナセル時代のエジプト並びにソ連は、直接軍事介入以外の手段により60年代初頭その「国家」を独立させ自力で立たせる事に成功した。そのように今日の研究者たちは見ている。

世界を覆う無関心と責任感の欠如という現象は不思議ではない。イスラエルの戦争マシーンの前に子供や女性が肉片と化す、おぞましいガザ情勢を文明世界はただ「見物」していたのだ。ガザ攻撃の停止を求める安保理決議にもかかわらず、世界はただ沈黙していた。

グローバライゼーションが各々の国家を凌駕し、国家機関は失われていく。そのような考え方があったが、二つの事件により、国家存続の必要性、人間社会には国という機能が必要なのではないかという考えが見直されている。

一つは、世界的事件としての金融危機である。もし「国」が倒産した銀行や企業を救済に走らなければ、その国民は蓄えも底をつき路頭に迷う事になっただろう。銀行を保護するため完全に「国有化」せよなどという要請もある。1929年の「大恐慌」の際各国が自国経済救済に動いた例にならい、最近サウジアラビアで開催された世界「競合フォーラム」は、経済を牽引し社会的公正を守る責任は国家にあると定めた。

もう一つの事件が、ソマリアにおける国家崩壊である。これにより、海賊達はその海岸からアデン湾までを支配することを許された。スエズ運河へ至る紅海の入口という重要な海域である。法治国家を建設するほど発展する以前の原始時代へ人類を戻そうとする、無秩序を好む人々の夢が、この海域で実現されてしまった。

海賊問題の原因は貧困である。拉致事件の度に「身代金」を支払うことではこれは解決されない。それらの金銭は拉致犯の野望をかきたてるだけだ。彼らの国が、社会的公正を実現する事によりその貧困を解消しなければならない。「国家」という機関を見出して以来、人類はそのために闘ってきたのだ。

ともかく、海賊の「おかげ」で「ソマリア情勢」が国際社会で問題となった。しかし、海賊問題が解決したらその海岸から引き上げるのではなく、国家再建、中央権力の回復というソマリアの呼びかけの前に留まるべきだ。「イラク国家」の将来に関心を有する人々についても同じ事がいえる。イラク、ソマリア、アフガニスタン、宗派や部族による派閥主義が拡大している場所である。しかし国家という存在を根付かせるのは容易なことではない。イブン・ハルドゥーンやいにしえの人々が言ったように、権力か無秩序か、横暴な君主か果てしなき内紛を我々は選ばなくてはならないのだろうか。


海賊問題それ自体よりも、それが国家の崩壊、不在という危険状態を示していることの方が重要である。グローバライゼーションと、それとは矛盾する無秩序が「国家」という存在やその諸機関を超越する、従って国家は無効であるとの考え方があるが、これは、国家と非国家状態の間をさ迷ってきたアラブ共同体にとっては危険である。数々の著作に示されるように、アラブにおいて国家は「政治派閥の一つ」に過ぎないという事が、現在までアラブの政治的欠点であった。サイード・アル=シッディーキーが述べるように、アラブ圏で国家が成長する際の要件の一つが、「その諸機関に様々な修正がほどこされ、それらを国の成長過程に適合させる」(1)ことであるというのがそれを表している。我々に必要なのは、「絶対主義国家ではなく、強い国家、個人の利害に左右される国家ではなく諸機関によって機能する国家、法と透明性を重んじる国家」(2)である。そして、「国家は中心的存在であり、そこでは自由主義、多文化主義が必須とされる。……国家はその運営を行い国民を等しく尊重するという義務を負う。……その代わり国民は国家の権力の正当性を認めなくてはならない」(3)。

別の研究でシッディーキーは言う。「貧困国家が発展する際の公的権力の重要性は明白である。……第一の目標は、経済的社会的福祉や国内治安のため健全な公的機関の枠組みを設定することだ。また国家は、収入源とそれを流通させるシステムを持たなくてはならない。……それらが市場を活性化する。同様に、教育、保健の保証、農産業支援も重要である。それらの責任を国家が遂行する事を止めれば惨事が起きる。」また、アッバース・アリー訳によるハンス・ピーター・マーティンとハロルド・ショーマンの著作を引きつつ、「国民、有権者が、その公正さ、責任の遂行、要請の実現等を監視し得る唯一の機関が国家とその政府である」とも述べる。

「国家は常に、それに降りかかる変転に対し驚くべき柔軟さと対処能力を示してきた。国民国家は、もしそれ自体に大きな変化が起きれば、経済のグローバル化とそれに付随するメディア革命に対抗しえる。……国民国家の代替物を考えるのではなく、この新たな国際情勢において人々の要請に応ええるよう、それを改変するという考え方は重要だ。」(4)

国際機関のような「超・国家的」存在と、宗派、部族、陣営など「国の下部組織」との間にあるべき国家は、その改変の後に、現代人にとって最良の選択となるだろう。後者、「国の下部組織」がアラブ社会の安定、治安にとり大きな脅威となっている今日においては、特にそういえる。

*バハレーン出身ライター

(1)サイード・アル=シッディーキー、p131、「国民国家はグローバライゼーションの挑戦に耐えるか?」、『グローバライゼーションと新国際秩序』、ベイルート2004、アラブ統一研究センター
(2)タウフィーク・イブラーヒーム、「思想世界」(クウェイトの季刊誌)、1999年12月
(3)ナディーム・カーズィム、p19、「アル=ワサト」、2009年1月
(4)シッディーキー、p132、同上

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:15983 )