Taha Akyolコラム:選挙結果の意味するもの
2009年03月30日付 Milliyet 紙

この記事を書いているときには、まだ最終的な結果は発表されていなかったが、概ね次のような状況であることは明らかであった:公正発展党(AKP)は得票数を減らしたが、そこまで減少したというわけでもない。この点は重要である。
選挙の歴史が示すように、与党が選挙で多かれ少なかれ票を減らしたとすると、その後の選挙でもこの減少は続くのだ!昨日(29日)の選挙はこの点から、公正発展党にとって警告でもあり2011年の総選挙に向けた警鐘でもある!公正発展党にとって(世界経済)危機が非常に大きな打撃となった。危機よりも更に、政治的闘争に集中したことが打撃となった!2004年の地方選挙で公正発展党に70パーセントの票を投じた保守的なカイセリの票が、この選挙では50パーセントに低下したことは非常に重要な指標である。エルドアン首相が非常に憤った態度で、野心に燃えた選挙キャンペーンを展開したことも、経済を軽視していると映り、有権者は政権に「警告」を与える必要を感じた。

■社会民主主義者?
危機の時期における選挙で有権者の投票を左右する最も重要な要因は「私たちを危機から誰が抜け出させるのか?」という問いである!1988年の危機の際にはオザルが政権にいた:1989年の選挙ではデミレルが「父よ、私たちを救ってくれ」というスローガンとともにオザルを倒した。
2001年の危機を思い出してください:政権には老齢のエジェヴィト首相と争いの絶えない連立政権。誰も「私たちを救う」という希望を生み出すことは出来なかった。2002年の選挙では彼らは皆消え去り、「新しい希望」として公正発展党が政権についた。
世界でも同様である。1929年の危機ではアメリカからヨーロッパに至るまで、中道左派から新顔、新しい政治家が政権についた。ドイツではナチスである。
トルコではこの選挙で国民は「私たちを危機から誰が抜け出させるのか?」という問いに対する答えを野党には見つけられなかった!
野党第一党である共和人民党(CHP)は、危機から抜け出す政策をもって選挙に臨まなかった!経済対策を実施し、大衆に信頼を与えるような新しい人物もいなかった!共和人民党のファイク・オズトラクは2001年の危機でケマル・デルヴィシュのチームで成功した財務庁長官だった。現在共和人民党の国会議員であるが、オズトラクの名をこの選挙では我々は一切聞かなかった!集会広場では、「私たちはトルコを危機からこのように抜け出させてきた。しかし公正発展党は次のような過ちをおこなっている」といった様な事を述べていたならば、彼のような人物を前面に出て自由主義的な社会民主主義政党になることが出来たならば、結果は違ったものにならなかっただろうか?

■選挙の教訓
公正発展党の得票でにおいて、保守という要素は重要であり、トルコ全体の平均得票率を上回ったのは、保守的な地域においてである。共和人民党はこの文化的な壁を越え、公正発展党から多くの票を奪うことができなかった:公正発展党から離れていった票は民族主義者行動党(MHP)と至福党(SP)へ流れた。共和自民党は最近のスカーフ解禁政策のように、諸政策でもってこの障害を越えることを望んだ。しかしクルチダルオールが述べたように、「出遅れた、国民は選挙への投資であると考え、あまり信じなかった」
しかしクルチダルオールは説得力のある人物であるから、共和人民党の得票を増やした。これが示すように、政治で新顔は非常に重要だ。
共和人民党はもはやこの選挙から教訓を学び、文化・生活様式の闘争を放棄し、新顔とともに自由主義的な社会民主主義政党に変わらなければならない。さもなければ、政権に就くような政党となることは困難であるように見受けられる。
民族主義者行動党は、アンカラでマンスル・ヤヴァシュが選挙で負けたとしても、なぜ多くの票をとったのかをよく考えなければならない:政党にとりイデオロギーは十分ではなく、国民に政治に対する希望を与えることが必要である。
首相が立腹し、喧嘩っ早い態度を選挙の場で見せてはならない。政治家に期待される成熟さを示し、全力で経済に取り組まなくてはならない。おそらくこの選挙の最も重要な結果は、クルド民族主義の票田が拡大し、南東アナトリアがクルド系の「地域」という様相を強めたことである。これは非常に深刻な警告である。冷静に検討されるべきである。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:白石百合子 )
( 記事ID:16101 )