AKP(公正発展党)の選挙結果が、あらゆる方面で新たな議論や批判を生み出している。
親AKPで知られる新聞各紙においても、このような議論に加わるコラムニストの姿が見られる。AKP支持のYeni Şafak紙のコラムニストであるアキフ・エムレ氏が31日付で発表したコラムは、エルドアン首相とAKPに対する政治的支持者からの最も痛烈な批判となった。
「権力の傲慢に対するエリート主義のガンジー」と題したエムレ氏のコラムは以下のような内容である。
選挙後に言われうる言葉や行われうる解釈の大半はとっくに使われてしまった。ここまで多くの解釈が出揃っている状態では、選挙に関する同じ論評が繰り返される危険が常につきまとう。相反する見解を持つ人々さえお互いに似たような事を言い始め、もはやそれぞれに何の差異も存在しない、恰も一つの主張しか存在しなくなってしまったかのような、そういうメディアの時代にいるのだから。
私は、どんな権力も時と共に疲弊するものだとして、AKPの選挙結果を普通のことであると受け止めるつもりはない。なぜならこの選挙で発生した状況は、権力の座にあることから来る疲弊などよりさらに深刻なある問題に起因しているからだ。権力の腐敗である。郊外からやって来る、疎外された「声なき人々の声」となるということを掲げて政権にのし上がった人々が、瞬く間に体制に同化したことがもたらした態度の変化について述べているのである。ほとんど本来の意味を失ってしまったかの如き政治的立ち位置の変化が、そして社会的断絶がもたらした政治的結果を与党は語らなければならない。
ある種の「権力の傲慢」に囚われ、中道政党であるとの態度を急速にとるようになったことは、選挙運動に最も顕著に表れた。嘗ては各戸口を回り歩き、民衆との草の根的な人間関係を基にして、社会と積極的な関係を築いていた伝統を持つ党の流れを汲む与党だが、今回はこのような活動をあまり重視しなかった。膨大な予算によるメディアキャンペーン、派手な集会、そして党首のカリスマ性だけに頼って投票を求めた。中道右派政党というイメージは、単にイメージであることを越え、本質と化したのだった。
そして最も重要なことは、地方自治体における倫理の腐敗が草の根的な人間関係を築くことへの最大の障害であったということだ。メディアキャンペーンの背後に隠れ、人々が考え望むところを掬い上げようとしなかったことの根底には、与党としての驕りからくる洞察力の欠如がある。腐敗の認識が社会において広がれば広がるほど、また指導部がこれを受け入れればいけいれるほど、社会との溝が深まるのは当然の結果であろう。
AKPがこの選挙で勢いを失い、わずかではあるが得票数を減らした背景にあるのは、経済危機でも誤解でもない。権力の衰退が権力の腐敗に転じた段階であるにも関わらず選挙で大敗を喫しなかった最大の理由は、人々の記憶に鮮やかに残っている野党のイメージである。野党が何者でないかということが、与党が何者であるかということより前面に出ていたため、明らかな敗北とはならなかったのである。
しかしこれにも関わらず、CHP(共和人民党)のような政党が何ら主張もせず、何らの政策提案も持たずに、単に汚職に関するキャンペーンを張ったことが得票につながったことは意味深である。特にイスタンブルやアンカラといった県で、1994年以来地方行政を手中に収めている人々が、なぜ勝利するのに苦労したかを考えてみる必要がある。さらに、クルチダルオール氏の汚職反対の言説が最も評価されたことは、権力の腐敗の倫理的な側面を示している。
CHPのようなエリート主義政党の候補者たちがガンジーに例えられたことも、この選挙が持つ皮肉である。民衆からこれほど乖離したエリート主義的な精神があつかましくもガンジーのイメージになってしまうとは、政治的陣営の位置がいかに急速に入れ替わったかを存分に物語っている。
CHPがイデオロギー的な盲点を発見したことが、今般の選挙での新たな面であろう。これまでのところ、世俗主義勢力は、宗教反動への固定観念(的な懸念)が人々の共通の価値観であるという認識に基づいて政治を行うことがいかなる結果をもたらすかということを理解したように見受けられる。
世俗主義を軸にした分断化において、国民がどちらの側につくかを理解したばかりのCHPは、与党の最大の切り札を奪い取ってしまった。さらに、AKPの被害者や疎外された貧困層を重視の言説も取り込み、汚職との闘いや政治倫理などを旗印としたキャンペーンを始めた。もし大都市の左派系の自治体による過去の汚職と権力の悪用に関する記憶が鮮明でなかったなら、(CHPは)さらに良い結果を得ることができただろう。
この選挙で2つの政党の論調が入れ替わった。AKPはCHPに特徴的な権力の傲慢の犠牲者となり、CHPはAKPの成功の鍵を解明し、大衆性と誠実さをアピールした。
結果的に、今般の選挙過程はまったく胸がわくわくするようなものではなかったとはいえ、政党の論調という観点から見えてきた光景は極めて皮肉的なものであった。
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( 翻訳者:川原田喜子 )
( 記事ID:16109 )