コラム:イラン情勢に沈黙するアラブの声
2009年06月23日付 al-Quds al-Arabi 紙

■ テヘランとアラブ文化

2009年06月23日付クドゥス・アラビー紙(イギリス)HPコラム面

【イリヤース・ホーリー】

イランを席巻する政治危機は、イスラーム共和国において一過性の事件ではない。またそれは、抑圧的体制が強権発動の口実とする、単純な意味での帝国主義的陰謀でもない。それはまず第一に、ホメイニ革命によって創設されたイスラーム国家の哲学に結びついた政治文化の巨大な危機である。そして、その中にイスラーム法学上の深刻な対立が含まれている。その対立とは、ホメイニ存命中にモンタゼリを排除しハメネイを最高指導者にすえた時から始まっている。モンタゼリ排除は、ホメイニが考える法解釈、彼を新政権の基礎とした法学者による為政という理解をめぐる激しい対立を明らかにした。

イラン革命は突如起きたのではなく、モサデク政権内の国民運動、並びにアリー・シャリアーティーから発展した思想潮流をその源泉として現在の形に至ったものである。前世紀初めにアリー・アブドッラージクがその著書「イスラームと支配の根源」で示したように、国家体制は宗教的信条とは異なる。それは第一に社会的契約であり、したがって変転にさらされることになる。

イランで現在起きている事、ムサヴィ支持の中間層が街頭へ出ているという事態は、イランを超え地域へと問いを投げかける、政治思想的命題を喚起するものである。しかし、観測者を困惑させるのは、アラブのイスラーム・エリートたちがこのイランの変転に関する議論に加わらない事である。このような分断の一つの原因として、昨今のテレビによる「トークショー」文化が政治文化シーンを支配しているということがあげられる。この文化は、前進せず結論のみを持ってこようとする浅薄さと思想的貧困に特徴づけられている。しかし、この説明だけでは不十分だろう。この(イランとアラブの)分断については、何か理解しがたいものがあるという諦めに似た感触が(アラブ側)一般にあると言えないだろうか。それは、ヒズブッラー書記長が、法学者支配を宗教的信条の一部と評したことにも見られる。

イランとの強い紐帯を持つ、イラン情勢には何よりも気を配るはずの政党としてのヒズブッラーが、沈黙しているというのは不自然である。イランとの同盟関係は、軍事的にも資金面でもヒズブッラーの生命線であり、それなくしては、これまでのイスラーム抵抗組織としての多大な成果もありえなかっただろう。もちろん留保は付されるべきだ。ヒズブッラーは抵抗組織であるのみならず、レバノン政治に参画しており、その意味でもイラン問題は何らかの形で影響してくるからだ。しかし、「マナール放送」は大統領選については、ネジャードの勝利を一貫して報じた。それは、不正の可能性を否定する最高指導者の立場を選択したということだ。

域内のイスラーム抵抗擁護派の知識人、文化人らにも問いは投げかけられている。レバノン、パレスチナの抵抗を支持する彼らは、イランの宗教政治体制の内部で起きているこの大きな変転については沈黙し、関心の無い風である。

イラン・イスラーム革命以来、明らかにせめぎ合う二つのラインがある。ハタミ、ムサヴィ、キャッロービ並びに大勢のウラマーに代表されるライン、そして、ネジャード、つまり宗教的衣装の中にとどまり法学者統治の権限を有するハメネイのラインである。この二大勢力は、1979年の革命達成時から存在し、国家、民主主義、自由、女性の役割とその解放等々に関する考え方において対立してきた。その対立は、ムハンマド・マフディ・シャムスッディーンにより出された法学者統治に代わる共同体統治という推論の域に至り、ハタミ大統領時代から長きにわたって両派の闘争が続いている。アラブの宗教学者やナショナリストがこのようなイランの移り変わりについての議論を無視しがちであったのも、多少は納得のいくところである。

しかし、今次の大統領選挙はイスラーム共和国にとって間違いなくターニングポイントであり、そこには、メディアの報道ぶりや街頭での流血に示されるような専制体制へ移行の恐れも見られる。同時に、体制内に民主主義の潮流をもたらす可能性も潜んでいる。イランは、欧米メディアが言うようなアフマディネジャードの愚かしさだけでは語られない、巨大な文化を代表する国である。その民衆が自由を守るために闘っている。原理主義者の陥る過ちは、民主主義的変転を米イスラエルへの従属とみなすことである。その過ちは恥ずべきことである。なぜなら、その時そう主張する者は、東洋人、ムスリムは現代文明を受容できないとするコロニアリスト的視点の基盤となるオリエンタリズムを認めたことになる。自由と専制の終結、この二つを実現しない限り、イスラーム抵抗も部分的、自己防衛的なものにとどまるだろう。

アラブ側の議論の不在は、政治的にも思想的にも敗北した時以来、アラブ思想が陥っている空虚を示している。イランの教訓は、アラブの理性を目覚めさせるだろうか?

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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:16773 )