村のイマームから国会議長へ—シャーヒン新国会議長の生い立ち
2009年08月06日付 Hurriyet 紙
トルコ大国民議会新議長のメフメト・アリー・シャーヒンは、パン屋のアブドゥッラー親方の息子。
一時チャンクル県に属し、現在はカラビュク県に属しているオバジュク郡のエキンジキ村出身。イマーム・ハティプ高校を卒業し、村でイマームとなる。タイイプ・エルドアンとの道は、国民救済党(MSP)若手支部で交わり始めた。その後、一度も離れたことはない。
「私は野心的な人間ではない。あるポストに到達するために努力し、そのために燃える性格ではない。(あるポストには)求める人ではなく、求められる人がつくほうがよいと考えている」と述べるメフメト・アリ・シャーヒンが国民救済党の町内代表から開始した40年間の政治の旅は、彼をトルコで2番目に権威ある大国民議会議長に導いた。
■パン屋の息子
シャーヒンは、1950年9月16日、当時チャンクル県、現在はカラビュク県に属すオバジュク郡エキンジキ村で生まれた。パン屋を営む父親のアブドゥッラー親方は、チャンクルで誠実な人物として知られるパン職人だった。シャーヒンは、イマーム・ハティプ高校を卒業した後、エキンジキ村で短期間イマームとして働き、叔母の娘であるサーニイェさんと結婚した。政治には、若い頃イスタンブル大学法学部で勉強している時に足を踏み入れた。1970年代、法学部で学ぶ一方、イスタンブル宗務局で監察官として働いている時、タイイプ・エルドアンとの道が、国民救済党(MSP)若手支部で交わり始めた。
■空手を習っていた
カスムパシャ地区でタイイプ・エルドアンがサッカーをしていたエロック・スポーツチームの仕事を、シャーヒンも手伝っていた。シャーヒンはその後、エロック・スポーツチームの代表にまで昇進した。アマチュアチームでサッカーをする一方、レスリングのフリースタイルと空手もやった。スポーツへの関心は政界でも失わず、女優のヒュりヤ・アヴシャルとテニスをしたことで注目を集めた。シャーヒンが最近熱中しているのはモーターサイクルだ。シャーヒンは、ガラタサライの大ファンとしても知られている。
国民救済党イスタンブル支部時代に始まったエルドアンとの友情は1980年代以降は福祉党(RP)で続いた。1994年にファーティフ区長に選ばれるたが、職務についていた期間はわずか40日だった。次の選挙では祖国党(ANAP)候補のサーデッティン・タンタンが勝利した。「ミッリー・キョルシュ(国民の視座)」組織で働いていた期間は、フリーの弁護士としても働いた。1995年、福祉党のリストから議会入りしたシャーヒンは、(福祉党をひきついだ)美徳党では、「改革派yenilikçi」グループに所属し、再びエルドアンとともに公正発展党を創設し、その後政党の幹部を歴任した(議会の党派代表、副首相、国務大臣、法務相)。
■批判されている側面
法務相在任期間中にデニズフェネリ不正送金事件などの裁判で行った矛盾する説明により、批判の対象となった。エルゲネコン裁判の時には、メディアを誘導する情報を流したとされ、批判を浴びた。選挙区であるアンタリヤの地方選挙で、「政府と喧嘩し、ぶつかる地方自治体は全てのプロジェクトを中央政府に認めてもらえるとは限らない」と述べ、議論を巻き起こした。野党はシャーヒンを、選挙で脅迫を行ったとして非難した。最近の異動で内閣から外れたのは、(彼の選挙区である)アンタリヤの首長選挙での(公正発展党の)敗北のせいだと噂された。大国民議会議長候補として名前があがると「エルドアンとの結びつきへのご褒美」と受け取られた。野党はシャーヒンに対し「彼が仕事したすべての場所が宗教勢力によりのっとられた。国民議会もそうするつもりだろう」との見解を示し反対した。
■競走馬からの利益を、障害のある子供たちへ
最初の子供であるファーティフは、1歳のとき、村の家で階段から落ちて知能に障害をおった。妻のサーニイェ・シャーヒンさんは、息子と同じように障害をもつ多くの子供たちが教育を受けられるようにと、社会事業に参加した。競馬に興味のあるメフメト・アリ・シャーヒンは、自分の「タトゥル・ジャドゥム」という名の競走馬からえた収入を、知能障害の児童の教育に寄付すると発表した。しかし、そもそも競走馬養育業者が、「タトゥル・ジャドゥム」を彼に贈答していたことは議論を呼んだ。シャーヒンは、その批判に答え、5000リラで子馬を買った、と発表した。
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( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:17128 )