逸れてしまった地下鉄坑道(補足):スィー・オ・セ・ポル(三十三橋)とエスファハーンの物語は続く
2009年11月03日付 Jam-e Jam 紙


国家交通高等評議会の認可により、エスファハーンの地下鉄建設が1979年に決定された。しかし、地下鉄の坑道がチャハールバーグ通り(注1)、さらに、スィー・オ・セ・ポル(橋)(注2)付近を通ることから、この事業の継続は、歴史遺跡と文化遺産の専門家らによる阻止と真剣な抗議に直面した。

(注1) チャハールバーグ通りは、エスファハーンを南北に走るメイン・ストリート。付近には同市を代表する歴史的建造物が多い。
(注2)「スィー・オ・セ・ポル」は、「三十三橋」の意。橋脚部分に33のアーチをもつことによる。市南部を東西に流れる「ザーヤンデ・ルード(「生み出す者の川」の意)」にかかる橋で、17世紀はじめに建設された。

(中略)

最近、イランでは、再び「スィー・オ・セ・ポル」(=「三十三橋」)の名が再び人々の口にのぼっている。それは、エスファハーンで建設中の地下鉄坑道が本来のルートから逸れ、この歴史的な橋を破壊もしくは破損させる可能性が生じたためである。

ことの始まりは、1388年シャフリーバル月9日(2009年8月31日)に「地下鉄の南北ルードの東トンネルが、本来のルートから逸れて川の下を通過した後、スィー・オ・セ・ポルから40mの場所を間違えて掘ってしまった」と報道されたことによる。

このニュースは何日か後にイスファハーン都市鉄道機構責任者のアブドルジャッバード・ザッファラーニーによって認められた。しかし、機構の取締役は、現在通りのアスファルトの下で坑道ルートが逸れはじめたこと、さらに、橋の橋脚部分は損壊していない事を強調した。こうして一連の騒動が始まった。

エスファハーン市の担当者らは、地下鉄坑道のずれの原因が、TBM(トンネル・ボーリング・マシーン)設計図読み取り用コンピューターに入力する暗号にアクセスすることができる第三の人物の存在にあると見なしており、この人物が故意にこのずれの元を作り出したと考えている。

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参考記事(「逸れてしまった地下鉄坑道:スィー・オ・セ・ポル(三十三橋)とエスファハーンの物語」)

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( 翻訳者:阿部初音 )
( 記事ID:18037 )