Namik Kemal Zeybek コラム:「アレヴィー派会議」提案
2009年12月15日付 Radikal 紙
トルコ国民の大半はハナーフィー・スンナ派ムスリムである。そして次に多いのがアレヴィー・ベクタシだ。シャーフィー・スンナ派ムスリムも少なくない。ジャーファル・シーア派ムスリムもまた然り。
国民の大半はムスリムである。キリスト教、ユダヤ教、バハイ教、ヤーズィーディーの国民もいる。おそらく、他の宗教を信じている国民もいるだろうし、無神論者もいるだろう。
我々は、我々に与えられたトルコ共和国という屋根の下で生きていく運命にある。ほんのわずかな人を除いて、宗教や信仰も、国家も我々は選べないのだ。
こういった状況である時に、我々、すなわち我々一人一人にかかってくるのは何であろうか?
自身の信仰を、信じているようにそして好きなように信じて生きていくことであり、他者のこうした権利に敬意を払うことではないというのか
信仰の違いや信仰上の対立から生じる「もつれ」を解くことも、そうしたことではないのか
そう、まさにそうしたことなのだ・・・
そうであるなら、我々共通の国家が、我々に対してそのように扱い、信仰の権利と自由について公正であることが必要ではないというのか?
我々が民主主義を身に付けたなら、「もちろん必要だ」と言うだろう・・・
では実際はどうだろう?
もしそうなら、「アレヴィー派会議」など必要なかったはずだ・・・。
この国ではスンナ派やシーア派にとっても、権利と自由の意味で問題があるが、主な「もつれ」はアレヴィー・ベクタシであり・・・・これはすぐに解決すべきことだ。
民主主義の根本は「権利と自由」である。為政者を国民が選ぶことが、形のうえでの条件である・・・
現代の参加型民主主義の息の根を止めないこと・・・。
アレヴィー派会議を、参加者のアプローチにより大きな「もつれ」を解決するという意味で、価値あるものと私は思っており、明日ぜひ参加して意見を述べたい・・・
では、何を言うのだろうか?
もちろん、長い間私が書き、主張し続けてきたことを・・・。
まずアレヴィー・ベクタシの定義と説明は、この信仰を信じている者によってのみなされうるということを・・・。アレヴィーとは家系(一族)の問題ではなく、信仰であることをも強調しながら・・・。
しかし、本当の解決には民主主義のアプローチが必要であることと・・・それと、誰かが誰かに手段と方法を強制することはできないのだという理解も忘れてはならない。
何をすべきだろうか?例えば・・・
―モスクに与えられた便宜をジェムエヴィにも与える。(礼拝所であるかないかを、アッラーと礼拝参加者以外誰も決めることができないということを忘れずに)
―スンナ派宗教関係者に認められた権利をアレヴィー・ベクタシの宗教関係者にも認める。
―スンナ派宗教組織に認められた権利をアレヴィー・ベクタシ宗教組織にも認める。(あるいは宗教組織のなかにアレヴィー・ベクタシ部門を設けるべきだ)
―アレヴィー・ベクタシの宗教知識を学べるような学校を、国民教育省管轄下に設けること。(私立学校も認可すべき)
―アレヴィー・ベクタシの歴史的修道場と不動産はアレヴィー・ベクタシの宗教機構へ返却する。
―学校の宗教と倫理の授業で、アレヴィー・ベクタシについての項目は、アレヴィー・ベクタシを信仰している学者に書いてもらうべきだ。具体的には、アリ・リザ・ウールル・デデやメフメト・ヤマン・デデ、他にもたくさんいる。
アレヴィー・ベクタシのリーダーたちもこの問題を、政治的、イデオロギー的な観点から見るべきではない。信仰や民主主義の観点から見るべきだ。ジェム・ワクフはこの問題おいていい例である。他にも・・・。
もともとアレヴィー問題解決とは、いかに単純なことかが分かるだろう・・・。
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( 翻訳者:牧史織 )
( 記事ID:18084 )