名作「群れ」の監督、ゼキ・オクテン逝く
2009年12月19日付 Radikal 紙


偉大な映画監督がまたひとり逝った。「群れ」、「敵」、「仕返し」、「カプジュ(アパートなどの管理人)の王様」、「窮屈な世界」、「さようなら」などの作品で映画史に輝かしい名を残したゼキ・オクテン監督が、12月18日夜、アメリカ病院で息を引き取った。オクテン監督の体調は18日夜に急変し、病院に運ばれて心臓手術を受けたあと、集中治療室で治療を受けていた。(ゼキ・オクテン監督は、)オスマン・セデン、オメル・リュトゥフィ・アカド、メティン・エルクサン、メムドゥーフ・ウン、ハリト・レフィー、アトゥフ・ユルマズの後に現れた第二の新世代映画監督のうちのひとりで、68歳だった。

ゼキ・オクテン監督と言えば、トルコ映画史上最も優れた映画のひとつである「群れ(脚本:ユルマズ・ギュネイ)」の他に、彼が恥ずかしがり屋であるもととなっている自身の慎み深さを思い出す。あれは「さようなら」が公開されていた頃のことだろう。「群れ」を、何年もの公開禁止の後初めて公開したアンカラ映画祭で観てとても感銘を受け、記者であった私はこの偉大な映画の監督と知り合えるということで興奮していた。参加者が待つルメリヒサルの喫茶店で待ち合わせした。あまりに慎ましく親切な方なので、これほどの映画を作った人のみがこのように謙虚でいられるのだと心の中で思った。表舞台に出るのを恐れて、各映画祭ではどのようにして人目に触れない場所に隠れたかを、とっても恥ずかしがりな子供のように話したのだった。同様の理由から、彼自身への受賞式でも、めったに舞台には上がらなかった。

ゼキ・オクテン監督は1941年にイスタンブルに生まれ、ハイダルパシャ高校で学んでいた間、演劇に興味を持った。1961年にニシャン・ハンチェル監督の「辛いオリーヴ」という映画でアシスタントをしたことがオクテン監督の映画界への最初の一歩であり、1963年に処女作「死の市場」を撮影した。この映画において、期待していたような成果を収められなかったことから、再びアシスタントへと戻った。謙虚さはここでも現れたようで、丸々9年間オメル・リュトゥフィ・アカド、ハリト・レフィー、メムドゥーフ・ウン、アトゥフ・ユルマズのようなトルコ映画界の偉大な監督たちのもとでアシスタントをした。1972年には「女の行為」、その後1973年にセリム・イレリ脚本の「一束のすみれ」で注目をあびるようになった。

オクテン監督は1974年に「軍人の帰還」を撮ったが、本当の成功は、ユルマズ・ギュネイ脚本でこの種の映画の傑作ともいえる、「群れ」(1978年)と「敵」(1979年)をもって得た。「群れ」によって、1979年ロカルノ映画祭と1980年アントワープ映画祭の最優秀作品賞を始めとし、11個の国際賞を受賞した。「群れ」と「敵」で現実を直視したスタイルを守り続けたオクテン監督は、ケマル・スナル主演の「下司」(1975年)、「カプジュの王様」(1976年)、「清掃人の王様」(1977年)、ゲンジョ・エルカル主演の「仕返し」(1982年)などで、社会問題をコメディーに織り込むという新たな映画を製作し始めた。

オクテン監督は、アンタリヤ・アルトゥン・ポルタカル映画祭で「カプジュの王様」をもって最優秀監督賞、「仕返し」をもって監督賞及び最優秀作品賞を受賞し、タルク・アカン主演の「レスラー」(1984年)をもって多くの国際賞を受賞した他、イスタンブル映画祭で優秀賞を受賞した。1986年には「声」を撮ったオクテン監督は、1988年「窮屈な世界」の後、一旦映画を撮るのを止めた。この映画はケマル・スナル主演で、アシスタントは今日の偉大な映画監督の一人であるゼキ・デミルクブズであった。

オクテン監督は、丸11年後の1999年に撮った、メティン・アクプナル、ゼキ・アラスヤ、ユルドゥズ・ケンテル、エシュレフ・コルチャクが出演する「さようなら」をもって、以前の輝かしい日々に戻った。この映画を約100万人が観て、この映画をもってアルトゥン・ポルタカル映画祭で最優秀作品賞を再び受賞した。2003年にはタルク・アカンとオカン・バユルゲリのダブル主演の「私の薔薇」を撮り、2006年には「中国人が来る」を撮った。オクテン監督は、女優ギュレル・オクテンと結婚していた。

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( 翻訳者:津久井優 )
( 記事ID:18103 )