1952年からたくさんの名の下に活動を続けてきた戦争遂行研究機関局(STKB)は、韓国への派兵、9月6日事件さらにはキプロスでのトルコ抵抗軍の組織化といった多くの重要な事件と共に、その名前が思い出される。
平時においては当該地域における敵の占領に対して抵抗し、反乱の組織化を図ることを任務とする戦争遂行研究機関は、階級的には特殊部隊、それも参謀副総長の直属である。戦争遂行研究機関(STK)は、アメリカで教育を受けたダニシュ・カラベレン准将によって当時の国家安全保障評議会である高等防衛会議の決定の枠組みで、1952年9月27日に国家ハンター(猟銃)連合の支部として作られ、現在の特殊部隊のなかでひとつの組織として活動を開始した。1948年アメリカに、特別な戦闘組織のため、また「ステイ・ビハインド」と名付けられた戦略的な教育の為に送られた16人の将校は、その後の「特殊部隊」の核となっていった。この将校の中にはカラベレンとともに、トゥルグト・スナルプ、アフメト・ユルドゥズ、アルプアルスラン・テュルケシ、スプヒ・カラマンとフィクレト・アテシダールのような名前もあった。最初の任務は1950年の韓国への派兵であった。戦争遂行研究機関は、9月6日事件でも名前が挙がった。テッサロニキでアタテュルクの生家が爆破されたという嘘の情報をもとに、1955年の9月6日から7日に、少数者(マイノリティー)らに対し攻撃がなされたが、そのとき5583棟の家と店が略奪された。52ヶ所で同時に起こったこれら事件に関与したと話していた特別戦争局の元司令官で退職したサブリ・イルミベシュオールは、「特別戦争局の仕業であった。完璧なまでに組織化されたものであった」と言う表現を用いて話した。戦争遂行研究機関の名前は、その後多くの事件で「対ゲリラ組織」として挙がってきた。
■ キプロスではトルコ抵抗軍(TMT)を組織化した。
今日、戦争遂行研究機関と呼ばれる組織は、1958年8月1日、当時のアドナン・メンデレス首相の指示でキプロスにおいて、トルコ抵抗軍という名の下で秘密裡に非合法的な武装集団組織を作った。組織の名前は、1967年、当時のジハト・アヨル准将によって特別戦争局に変えられた。非正規軍ではあるが、作戦に関しては専門集団化している特別戦争局は、「軍隊内の秘密部隊」として知られ始めた。
戦争遂行研究機関再編成という枠組みで、1992年に特殊部隊が作られ、特別戦争局は特殊部隊に統合された。特殊部隊も参謀副総長の直属になった。特殊部隊の部隊長の階級は2年目に変更され中将に上がり、さらにトップには特殊部隊の司令官であるセルベト・ヨリュク中将が就いた。
■ 決して兵士を使わない
その構成という点で、トルコ全土が2002年までに12の地域に分けられ、すべての地域に支部長がいる。2002年の変更によって地域支部長の数が16になった。戦争遂行研究機関も、「非正規戦闘」の組織化が任務である。この枠組みで、すべての地域の支部長は、管轄する県において領土が敵の占領を受けた場合、その場所を決して見捨てず、その地域を支配する権威を打破して弱体化させ、敵の作戦を妨害し、その地域を取り戻すための反乱や抵抗運動を始めさせ、実現させうる市民メンバー(非兵士メンバー)を、平時に見つけてその組織化に努めている。この活動の間は、決して兵士を使わない。メンバーは下士官からなっている。指令本部にいる中尉、大尉、少佐、大佐級の士官はというと特殊部隊の隊員のなかから選ばれる。戦争遂行研究機関には、諜報機関はない。
■バシュブー:埋められている武器はない
イルケル・バシュブー参謀総長は、2009年4月29日付け参謀本部において行なわれた記者会見で、戦争遂行研究機関に暗に触れた。いくつかの報道機関で、「エルゲネコン捜査の枠組みで見つかった軍用品の一部が、特殊部隊のものであり、戦時に使用する目的で様々な場所に埋められた」とされているのを、引き合いに出したバシュブーは、「このことに明確に答えよう。トルコの地中には、1986年まで戦争遂行研究機関の、特に特殊部隊に属する武器と軍用品が埋められていた。1986年に下された決定の枠組みで、武器と軍用品のすべてを集めて倉庫に収納するようにとの命令が出された。この措置は、1998年に完了した。これはつまり次のようなことである。この国土のいかなるところにも、戦争遂行研究機関の武器と軍用品は埋められていないということだ」と述べた。
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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:18154 )