コラム:スーダン情勢、ダルフールに関するドーハ合意
2010年02月25日付 al-Hayat 紙
■ バシールが署名したのは、これまでと同様のスーダン合意なのか?
2010年02月25日付アル・ハヤート紙(イギリス)HP1面
【ムハンマド・サイイド・ラサース(シリア人ライター)】
2006年の春、ナイジェリアの首都アブジャで同国とリビアの共催によりダールフール問題に関する会議が行われた際、スーダン政府代表団の前には、2003年2月以来反乱を続けてきたダールフールの二グループの指導者たちが座った。「公正と平等運動」[以下JEM]の長、ハリール・イブラーヒーム博士、並びに「スーダン解放運動」[以下SLA]の長アブドゥルワーヒド・ムハンマド・ヌールとその事務局長で軍事指導者のミニ・アルコ・ミンナーウィーらである。アブジャ合意への署名は同年5月5日に行われた。ダールフール側はミンナーウィーのみが署名し、これが元でSLAは内部分裂をおこしたため、JEMがダールフールの反政府軍事組織としては最強のグループとなった。合意署名直前の状況とは逆になったわけである。合意そのものは何ら実効力はない紙切れと化したのだが、ミンナーウィ―はスーダン大統領補佐の地位を得た。
これと似たようなことが2010年2月23日火耀のドーハで起きた。「ドーハの説教壇」から自らを遠ざけたアブドゥルワーヒド・ヌールはさておき、カタル首都での数週間の会合にはダールフールから三つのグループが参加した。それらは、JEM、そして「ロードマップ」と称される「アジスアベバ・グループ」、その中で顕著な勢力が2009年の夏以来ハリール・イブラーヒーム博士の勢力とたもとを分かった「公正と平等のための民主運動」である。三番目が「トリポリ・グループ」で、これはSLAから分派した複数の勢力が、2010年1月に行われたクフラ会合で「スーダン解放・革命軍運動」の名のもとに協調したものである。2月のドーハで、その火耀の夕刻、ハリール・イブラーヒーム博士の一派は、スーダン政府との「ダールフール和平のためのフレームワーク協定」に署名した。その数時間前、トリポリとアジスアベバの二派は「解放と公正運動」の名のもとに新たな一つのムーブメントとして協調することとなった。元ダールフール地域総督でスーダン全土でも著名人であるティジャーニー・シシ博士を指導者とするこのグループは、ヌール派同様ドーハ合意に対する拒絶を表明した。
ドーハ・シェラトンで行われた調印式典にエチオピアとリビアの大統領、あるいはその代理の姿が見えなかった理由の一端が上述の出来事であろう。一方、この調印の三日前、チャドの首都ヌジャメナで合意ドラフトへの署名が行われている。数週間前チャド大統領がハルツームを訪問し両国間が新たな関係に踏み出したこととドーハ調印は切り離せない。両国和解の最初の成果がドーハ合意であるともいえる。調印式典の様子からもそれは明らかであり、イドリース・デビ・チャド大統領はいうなれば「花婿の母」のポジションにいた。チャドの首都は2003年以来、JEMに対して、ベトコンに対するハノイと同様であった。つまり、JEM指導者ハリール・イブラーヒーム博士とチャド大統領は共に同じザガーワという部族に出自を持つ。
この枠組みで考えると、2009年夏のJEMの内部分裂は、同グループ内でハリール・イブラーヒーム博士がザガーワ部族の
覇権を固めようとし、他の2部族フールとマサーリートを疎外しているとの懸念が生じたためとみられる。「公正と平等のための民主運動」は、ンジャメナ・ドラフトについても「部族主義的ステップ」と評している。それを通じてハリール・イブラーヒームがチャドの支援を得てダールフールを支配し、ひいては「イスラーム運動の再統合」をもくろむためのもの、という意である。後者は、元々トラービー派であり90年代の閣僚であったハリール・イブラーヒームとバシール大統領の利害が一致することにより起こり得る。そして、2005年の政府と南部のナイバシャ合意に基づき2011年行われる国民投票により南部が分離独立を選択した場合、スーダン内部では相互対立が生じる可能性がある。
さて、ドーハ合意に地域情勢をあてはめてみると、エリトリア大統領の参加には、ソマリア問題につきエチオピアと軋轢が生じている同国がスーダンにすり寄っているという背景が見える。
一方で、国際的視点からみると、国連とアフリカン・ユニオンが共同で祝意を示し、ワシントンもEUもこの合意に満足していることが分かる。少なくとも反対や、失敗させようとの試みは現れてはいない。アブジャ合意の際のワシントン並びにンジャメナの反応とは異なっている。
これらの糸をより合わせると、アメリカの方に新たなムードが生じていると分析できる。そのサインはスーダンの上で明らかになりつつある。2009年3月4日国際刑事裁判所が逮捕状を発して以来、バシール大統領は、文字通りいかなる形ででもそれに対応しようとはしていない。しかしそれは「ロードマップ」から同大統領を遠ざけるダモクレスの剣の役割を果たしている。1999年の最後の月、政権に残るにはトラービーを犠牲にするしかないことを理解した時のように、バシール大統領は雰囲気を読んでいる。つまり、欧米へと至るゲートはンジャメナにあるのだ。そしてチャド大統領は、ダールフールの石油・ガスをナイジェリアやカメルーンの港へ送るパイプラインを自国に通すことに意欲的である。それは、1989年6月30日の「救国革命」によりバシール・トラービーの連立政権が成立して以降ダールフールのコントラクトの大部分を得ていた中華系企業が撤退した後のことになるが。スーダン大統領の振る舞いは、これらの状況を裏付けている。この数カ月、彼は国際刑事裁判所オカンボ判事の脅し文句など聞いたこともないという素振りでハルツームの大統領官邸に落ち着いているが、微妙な軌道修正を行っている。ダールフールがその起点であり、ンジャメナは通過ゲート、ワシントンがゴールである。1974年に石油が発見され1983年第二次内戦が勃発した南部州が来年分離するというタイミングも重要である。
バシール大統領はこの軌道修正に成功するであろうか?彼の政権は1989年に発足している。冷戦が終結し、対ソビエト戦略としてのイスラム運動とワシントンとの同盟に理由が失われた時期だ。20年を経て初めて、その政権がアメリカの首都と対立しない関係に至ることが可能となるのだろうか。
もしそうなれば、ドーハ合意はこれまでのスーダンの合意と同じではなくなる。
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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:18548 )