小説の解釈や作品で彼が述べた思想は広く議論された。著作によってアナトリアに適した「その土地の」左翼思想を形成しようと努めた。ケマル・ターヒルは今日100歳を迎える。
■小説14作が2巻に
ケマル・ターヒルの本を出版しているイトゥハキ出版は、2つの意義ある出版物で著者の生誕100周年を祝っている。同出版社はケマル・ターヒルについての著作などからなる記念出版物を企画し、同時にケマル・ターヒルの作品が連載されていた時代に非常に人気を博した小説から分厚い2冊分の選集を出版する。
この選集には14作の小説が収められ、同著者の「軟弱な男」、「一夜の君候国」、「ネディーム・ディーヴァーン詩の謎」、「心と呼ばれた動物」、「これは小説の小説」などの作品が納められている。両プロジェクトの成果は今秋出版される。
ケマル・ターヒルは、ちょうど100年前の今日(3月13日)、アブデュルハミト2世の補佐官であったターヒル・ベイの息子としてイスタンブルで生まれた。この作家はトルコ文学のみならず政治学や社会学にも影響を与えた。彼はトルコ史について研究を行ってそこから導き出された結果を小説によって広めることを選択した、文学者であり知識人であった。ケマル・ターヒルは農村部の生活様式、社会構造や村人の世界を扱った小説で用いた言葉によって注目を引いた。アフメト・ハムディ・タンプナルは彼を「言語製造機」と名付けた。
ケマル・ターヒルは1973年心臓発作で命を失うまで執筆を続け、執筆する際素材を細心の注意を払って自分で作り出した作家のひとりとして記憶された。
ガラタサライ高校を10年生で辞めゾングルダク鉱業公社で倉庫管理係として働き、イスタンブルで弁護士秘書をしたあと「執筆」の道に進んだ。ターヒルは、1931年にイチティハト誌で詩を発表し文学への最初の1歩を踏み出した。当初、音節韻律を用いて書かれたターヒルの詩は、ナーズム・ヒクメトの出会いの後、発展を遂げた。ターヒルは社会問題を扱った自由詩を作り始めた。生活の糧をペンによって稼がねばならない作家の1人であったため、この時期には風刺短編や冒険小説も書いた。
■ナーズムとともに裁判に
ターヒルは様々な新聞・雑誌で校正、記者、通訳、秘書として働いた。ナーズム・ヒクメトが裁判にかけられた「バフリエ裁判」で有罪判決を受け15年間刑に服した。刑務所で過ごした時期がケマル・ターヒルの執筆人生において決定的なものとなったと言われている。文学界で好評を博した多くの小説を服役中に執筆した。1950年に恩赦によって刑務所を出所した後ペンネームで冒険小説や恋愛小説を翻訳し、台本を書いた。ケマル・ターヒルと聞いて最初に思い浮かぶことの1つが彼の様々なペンネームで書かれた本の多さである。この種の活動の中で最も有名なものはといえば、疑いなくマイク・ハマー・シリーズである。ベドゥリ・エセル、セミム・アシュクン、アリ・グジュルル、F.M.イキンジなども彼の使用したペンネームだった。
1955年、ついに彼の本名で発表された最初の小説「音のない川」が出版され、それに「濃い霧」が続いた。ケマル・ターヒルは、チャンクルからカスタモヌ、チョルム周辺を描いた小説で農村部の生活様式、社会構造、村人の世界を扱った。その祭、彼が必ず行ったことは、タンズィマートから現在に至るまでに変わった所有関係、強盗行為の本当の顔を明らかにすることだった。
■歴史小説に関する議論
ケマル・ターヒルの最も有名な、出版された時期においても後年においても最も議論の的となった小説は、歴史のテーマを取り扱ったものであった。賞賛と批判とに評価が分かれる作品を書いた小説家として文学史に名を残した。この議論の主軸はもちろん執筆のイデオロギーであった。
休戦と共和国の時代をテーマとした小説であった。彼はこれらの小説で西洋化の動きや新たなトルコ政府の設立を批判した。「捕われの町の人々」「捕われの町の囚人」で占領下のイスタンブルや独立戦争があるオスマン人パシャの息子に与えた影響を、「疲れた兵士」で統一派と独立戦争を支持する諸勢力との間の衝突を、「狼の法」でイズミル暗殺未遂事件を、「道の分岐」で自由共和党事件を扱った。
ケマル・ターヒルのおそらく最も議論の的となった小説は「国家」であった。彼は、この小説でオスマンの伝統を捨てることは間違いであると主張していた。セラハッティン・ヒラヴはこの小説は次のように評価していた。「『国家』は、ケマル・ターヒルの哲学思想であり、同時に芸術の観点から、精神的な世界を形成する要素を最も明確かつ簡潔に述べた文書によって、1つの接触点を作っている。著者はこの小説で、世界の見方と芸術の基礎を形作る問題に正面から取り組んだ」
この歴史のテーマはオスマン帝国の社会構造が西洋の社会とは違うこと、生産様式と生産関係の発展の個性を主張しており、ケマル・ターヒルの小説の鍵を形成していた。彼は著作を続けている間小説を通してこのテーマを議論していた。
ターヒルは、晩年の多くを以前から構想していた小説を書き記し、出版して過ごした。さらに、彼の有名な小説のいくつかはその死後出版された。
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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:18687 )