辞任のバイカル元CHP党首はこんな人
2010年05月10日付 Yeni Safak 紙
これが、バイカル氏の経歴!
共和人民党(CHP)の党首を辞職したデニズ・バイカル氏は、1999年4月22日に選挙の結果の責任をとって党首を辞職し、約15ヶ月後に臨時党大会で再び党首に返り咲いた。その後の定期党大会と臨時党大会において党首に選ばれている。
本日5月10日に党首を辞職したデニズ・バイカル氏の経歴は以下のとおりである。
バイカル氏は1938年にアンタリヤで生まれた。アンカラ大学法学部を卒業し、1960年には政治学部の助手になった。博士号を修得した後2年間アメリカに留学し、さまざまな大学で学んだ。
デニズ・バイカル氏は1973年に行われた総選挙でアンタリヤから共和人民党の国会議員として当選し、1974年に組閣されたエジェヴィト内閣で財務大臣、1978年の再度のエジェヴィト内閣ではエネルギー天然資源大臣に任命された。
氏はこの時期に副書記長もつとめた。そして1980年9月12日のクーデターの後に一時逮捕され、1983年にも再び逮捕されたことがある。1987年の選挙で社会民主人民党(SHP)の国会議員としてアンタリヤから選出され、その後、まず社会民主人民党の会派副代表になり、その後、書記長職をつとめたのち、辞任した。
そして1992年7月に、解党した政党の再結成を許可する法律が施行されのをうけて実施されたCHPの党大会で、党首に選ばれた。
氏は1995年10月30日に成立した正道党(DYP)と共和人民党の連立内閣で副首相と外務大臣を兼任したが、1995年の選挙に続く第53回内閣の組閣で外務大臣、副首相から退いた。
1999年4月22日に行われた選挙の結果、党首を辞任していたが、2000年10月1日に実現した第11回臨時党大会で、約15ヶ月ぶりに再び党首に返り咲いた。
氏は2003年10月の第30回の定期党大会、2004年7月の第12回の定期党大会、2005年1月30日の第13回定期党大会、2005年11月の第31回定期党大会、そして2008年4月の第32回定期党大会で、再度党首に任命された。
バイカル氏は、妻と2児を持つ。又英語が堪能である。政治学の分野で著作や論文がある。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:大嶽真梨子 )
( 記事ID:19084 )