ウィーンで修士号取得の二人のトルコ女性、ワクフ制度の重要性を伝える
2010年05月30日付 Yeni Safak 紙

ウィーンで大学の修士課程で建築学を学び、先日卒業したエスラ・オズディルとミュジェッラ・アテシュは修士論文でウスキュダルにあるアティク・バリデ・キュッリイェ(複合施設)について書いた。ウィーン工科大学の技術文献に「ワクフ制度」の概念をもたらした論文の指導教官のサビーネ・プラコルム教授は、バリデ・スルタンら(スルタンの母后)に最も驚いたという。

エスラとミュジェッラはウィーン大学建築学科で建築学を学び、大学院に進学、先日の卒業式の後トルコに帰国した若き建築家である。彼女らが他の多くの建築学科の大学院生と違うのは、ウィーンにある100年の歴史を持つ大学の技術文献に「ワクフ制度」という新しい概念を吹きこんだことである。ミーマール・シナンの建築物は我々の多くがおそらく日常的に通りすぎるが、気にもとめていない。エスラ・オズディルとミュジェッラ・アテシュは、その彼の類を見ない建築物の一つであるアトゥク・バリデ・キュッリイェに注目し、このキュッリイェについて論文を書き上げた。彼らは論文を書き上げ卒業し、帰国の途についた一方で、やるべきことをやったという誇りでみなぎっている。二人は論文で、オスマン朝の社会構造の中で重要な役割を果たしたキュッリイェの、民衆に対する慈善行為について、そしてそれぞれの分野においても道を示してくれたことを説明している。そして、論文指導教官のウィーン出身の先生であるサビーネ・プラコルム教授と、建築学科のその他の先生がワクフ制度について知ると、ずいぶん驚いていたと話している。2人は大学院の修士論文でウスキュダルのアティク・バリデ・キュッリイェの建築について、そしてオスマン時代の建築における女性らの影響力について研究したと述べ、好成績で卒業したことよりもヨーロッパ建築界では類を見ないワクフ制度をヨーロッパに伝えたことが重要だと話している。


■アティク・バリデ・キュッリイェは新しい扉を開けた

ミュジェッラ・アテシュは、オスマニェに生まれの、若き建築家だ。アダナのテペダー・イマーム・ハティプ高校を卒業し、2003年にウィーンに渡った。ウィーン工科大学で一年間の大学進学準備課程を経て建築学科に入った。学部を卒業した後、大好きな建築で専門知識を身に付けるために院に進学した。2008年に卒業するとトルコに帰国した。今現在は個人経営の建築事務所で働いている。エスラ・オズディルは、1984年にキュタフヤで生まれた。マニサ・デミルジ・イマーム・ハティプ高校の卒業生である。大学学生選抜試験で高得点を取ったが、建築学科へ入学できず、ウィーンに渡ることにした。彼女も友人のミュジェッラ同様学部で学び、専門知識を深めるために院に進んだ。二人は修士論文を共同で書くことにし、オスマン時代の建築界で重要な人物であるミーマール・シナンがウスキュダルに建てたアティク・バリデ・キュッリイェの建築様式、歴史、オスマン時代のキュッリイェの構造上の特徴、そして女性たちのオスマン時代の建築に対する影響力を研究テーマとした。オスマン時代のキュッリイェとワクフ制度をヨーロッパ建築界に伝え、このテーマで研究するため、アティク・バリデ・キュッリイェについて調べ始めた。

アティク・バリデ・キュッリイェはヌルバヌ・バリデ・スルタンの要望で、ミーマール・シナンに作らせたものであり、彼女たちはこの建築物について広範囲にわたって調べ始めた。二人は、キュッリイェの特徴ある建造物と歴史の中で果たした機能が非常に重要であったと結論付けている。そして、論文を仕上げるのに1年以上かかったそうだ。アティク・バリデ・キュッリイェの建築プロセスが、どのように進んでいったかを一つ一つ調べるため、図書館と文書館の記録をこつこつ調べたということだ。


■ヨーロッパはミーマール・シナンを知っているがワクフ制度については知らない

エスラとミュジェッラはミーマール・シナンとその建築物はヨーロッパの建築家に知れ渡っているが、論文を書く際に興味を引いたのは、ミーマール・シナンのキュッリイェではなく、オスマン時代の建築界で重要な地位を占めていたキュッリイェを取り巻くワクフ制度であったと話している。オスマン朝ではキュッリイェ内部にあるモスク、メドレセ、救貧施設、墓、図書館、ハマム、食堂、隊商宿、バサール、学校、病院といった建造物が、無料で民衆のために機能していたことにエスラとミュジェッラの先生たちは驚いたそうだ。


■プラコルム教授:「バリデ・スルタンらに驚いた」

サビーネ・プラコルム教授はエスラとミュジェッラの指導教官である。学生がミーマール・シナンの晩年の作品の一つであるアティク・バリデ・キュッリイェについて調べるために自身の元へやってきたときに、本人もその建造物に興味を持ったと話している。さらに、オスマン朝時代の建築における女性の影響力について関心を持ったこと、このため論文のテーマを熱心に見守ったことを説明し、「研究の間中、彼女らが入手した全ての文書とこれに添付という形で添えられたテキストを私と彼女らが吟味し、論議し、論理的に整理しました。研究中は二人ともかなり熱心だった。私も彼女らと共に研究に没頭した」と話している。またサビーネ教授は、キュッリイェが修道院のように壁に囲まれた建物だと思っていたようであるが、それが実際には社会に開かれていたことを知るとかなり驚いたそうだ。プラコルム女史はバリデ・スルタンがこうした分野のパイオニアであったことにも驚かされたと話した。


■両国に建築の架け橋を

若き建築家の一人であるミュジェッラは、この先どのような活動をしていきたいか聞かれると、今までやってきた研究によってある想いが生まれたこと、将来歴史的建造物が次の世代に引き継がれるために一役買えるような建築家になりたいと思っていると語った。エスラは、ウィーンで学んだことをトルコで活かしたいと考えている。博士として研究を続けたいと思っているこの若き建築家は、両国間の建築学的視点を総合的にまとめ上げたいと思っている。

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( 翻訳者:百合野愛 )
( 記事ID:19277 )