ジュムフーリイェト紙主幹イルハン・セルチュク氏、死去
2010年06月21日付 Milliyet 紙

ジュムフーリイェト紙の主幹であり、主筆であるイルハン・セルチュク氏が85歳で、イスタンブルで亡くなった。

イルハン・セルチュク氏は木曜日にネヴシェヒルのハジュベクタシュ郡で埋葬される予定だ。

イルハン・セルチュク氏は手術を受ける前にジュムフーリイェト紙のコラム欄「ペンジェレ(窓)」で読者に次のような言葉を残し、亡くなった。

「月曜日に本当に手術を受ける。聞くところによると、かなり厳しい手術らしい。もし死んでも悲しみに暮れないことにしましょう。このようなことは起こるものだ・・・もしも死ななかったらまた会いましょう。死んだら今までの罪は許してくださいね・・・いずれにせよ、とりあえず、さようなら・・・」

手術で4本の心臓の血管を取り替えたこの有名なコラムニストは、病院の集中治療室で長い間治療を受けていた。

彼はこの間におこったエルゲネコン訴訟においても、組織の主導者として訴えられた。セルチュク氏は続行中の裁判には、健康状態を理由に出席していなかった。

セルチュク氏は手術を受けた後も健康状態が完全には戻らず、2009年8月に再び病院に運ばれた。セルチュク氏は片麻痺の診断を受け、集中治療室に移された。

セルチュク氏はこの日以降、集中治療を受けていた。彼が病院で治療を受けていた2010年3月11日に、兄のトゥルハン・セルチュク氏が亡くなった。

健康状態が悪化していたイルハン・セルチュク氏には兄の死は知らされなかった。

有名なコラムニストは今日の昼ごろ亡くなった。

イルハン・セルチュク氏の死亡についてアメリカン病院側が会見を行い、「セルチュク氏は2010年1月24日に脳梗塞で集中治療室へ移され、さまざまな手立てや治療の甲斐もなく、多臓器不全により2010年6月21日13時15分にお亡くなりになりました」と発表された。

85歳の生涯を終えた、ジュムフリイェト紙の主幹で主筆であるイルハン・セルチュク氏は、記者人生の大部分を「ジュムフーリイェト紙」とともに過ごした。雑誌の「ヨン」や「デヴリム」にも記事を書いていたセルチュク氏は、1971年にクーデター計画に関わったとして裁判にかけられ、無罪となり、エルゲネコン捜査の中で逮捕され、釈放された。身分証明書にはアイドゥン県と書かれているにもかかわらず、1925年にイズミル県で生まれたイルハン・セルチュク氏は、1950年にイスタンブル大学法学部を卒業した。少しの間弁護士をしていたセルチュク氏が最初に書いたコラムは、1952年に兄のトゥルハン・セルチュク氏と共に出版した「41.5」という名の娯楽雑誌に掲載された。

1958年には「カリカチュル」、1959年には「タシュ・カリカチュル」という雑誌に編集者として参加した。セミフ・バルジュオール氏と共に「ウルス」紙の娯楽面を担当した。1961年には「アクシャム」紙で記事を書き始めた。同年「タニン」紙へ、そしてそこから「ヴァタン」紙へ移った。1962年にはドアン・アヴオール氏、ミュムタズ・ソイサル氏、イルハミ・ソイサル氏、ジェマル・レシト・エユブオール氏と共に雑誌「ヨン」の創刊メンバーとなり、これにも記事を書いた。セルチュク氏は1962年にナディル・ナディ氏の誘いを受け、「ジュムフーリイェト」紙のコラムニストとなり、これ以降、生涯「ジュムフーリイェト」紙のペンジェレ(窓)と題されたコラムを書き続けた。

イルハン・セルチュク氏は、1971年3月12日以前にはドアン・アヴオール氏が創刊した雑誌「デヴリム」にも記事を書いていたが、3月12日の書簡によるクーデターの後、1971年3月9日のクーデター計画に関与したとして逮捕された。セルチュク氏は1971年に戒厳令裁判所で裁判にかけられ、無罪となり、書簡によるクーデター期に有名なズィヴェルベイ・キョシュキュで取り調べを受けた。その後ズィヴェルベイ・キョシュキュで受けた拷問を、自身の著書で語った。イルハン・セルチュク氏は、ベッリン・ナディ氏と共に、ジュムフーリイェト紙があらゆるものから中立を保ちながら存続できるようにと、ジュムフリイェト財団を建てた。トルコ人権協会(TİHAK)の創立メンバーであるイルハン・セルチュク氏は、トルコメディア界において民主主義を追求する姿勢が認められ、1997年にセルテル民主主義賞を受賞した。

1989年には現代記者協会の名誉賞を、1994年にはトルコ記者クラブの報道の自由賞を受賞した。イルハン・セルチュク氏は、「3月12日クーデター」から37年経った2008年3月21日朝4時30分ごろ、エルゲネコン訴訟の一環として労働者党のドウ・ペリンチェキ党首、元イスタンブル大学学長のケマル・アレムダルオール氏、ウルサル・チャンネルのフェリト・イルセヴェル放送局長、雑誌「アイドゥンルク」のセルハト・ボッルク総編集長、新聞記者アドナン・アクフラトと共に逮捕された。

イルハン・セルチュク氏は、2008年3月23日の深夜1時30分に釈放された。セルチュク氏は2008年3月30日に胸部の痛みを訴え、ヴェフビ・コチ財団アメリカン病院に運ばれ、4月15日に約6時間にわたるバイパス手術を受けた。セルチュク氏は5月25日に退院したが、2009年8月14日に再び体調不良を訴えると、ヴェフビ・コチ財団アメリカン病院の集中治療室で治療を受けた。セルチュク氏は脳梗塞の合併症で片麻痺になったとされた。セルチュク氏は10日間の集中治療を受け、2009年8月24日に集中治療室を出たが、治療は今日まで続いていた。

■ハジュベクタシュ郡長「イルハン・セルチュク氏は、兄の隣に埋葬されることを望んだ」

ジュムフーリイェト紙の主幹あり、コラムニストであるイルハン・セルチュク氏は、3か月前に亡くなった兄のトゥルハン・セルチュク氏の、ハジュベクタシュ郡にある墓の隣に埋葬されることを望んでいたことが分かった。

ネヴシェヒルのハジュベクタシュ郡のアリルザ・セルマンパクオール郡長は、イルハン・セルチュク氏と会った際に彼は兄と同様チレハーネに埋葬されたいと言っており、彼はこのことを自身の著書にも書いていたと語った。セルマンパクオール郡長は、とても素晴らしい記者で、そして友人である氏の死を悼んでいると述べ、次のように話した。

「私たちはイルハン・セルチュク氏と生前に話したことに基づき、チレハーネにあるお兄さんのトゥルハン・セルチュク氏の隣に彼のお墓を建てています。彼はよくチレハーネに埋葬されたいと言っていました。彼がこのことを記事においてでさえ言っていたのを私たちは知っています。遺体がいつ埋葬されるのか、どうなるのかは私には分かりません。しかし私たちは遺言を実行する準備はできています。彼をお兄さんのトゥルハン・セルチュク氏の隣に埋葬させてあげようと準備を始めました。お墓やお葬式について私たちのところに電話してきた方はまだいません」

有名漫画家であったトゥルハン・セルチュク氏は3か月前に亡くなっており、遺言に基づいてネヴシェヒルのハジュベクタシュ郡にある、マフスニ・シェリフの墓やアシュク・ヴェイセル、ピル・スルタン・アブダル、ユヌス・エムレの像がある「チレハーネ地域」に埋葬されていた。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:19472 )