サードゥッラー・エルギン法相「故オザル大統領の死には謎がある」
2010年06月26日付 Hurriyet 紙


サードゥッラー・エルギン法相は、元大統領トゥルグト・オザル氏の死に疑惑があり、「オザル氏が初の民間出身の大統領であったことが、闇組織を不快にした。」と述べた。

サードゥッラー・エルギン法相はアバント・プラットフォーム主催の「統制と民主主義」というテーマの会合で演説を行った。エルギン法相は1960,1970,1980年に起こったクーデター事件の真相が今日においてさえ明らかにされておらず、特に民間出身者が大統領に選ばれたことが闇組織を不快にしたのだと述べた。

エルギン法相は以下のように述べた。「1993年は1990年代のなかで最も暗黒の年であった。」オザル氏の不審な死、エシュレフ・ビトリス氏の不審な事故死とウウル・ムムジュ氏の殺害は同じ年に起きている。また、ムアンメル・アクソイ氏、バフリエ・ウチョク氏、チャティン・エメシュ氏、アフメト・タネル・クシュラル氏、ヒラム・アバス氏、メムドゥフ・ウンルトゥルク氏、ケマル・カヤジャン氏、フルスィー・サユン氏を始めとする人々がこの時期に暗殺された。エスカレートしたPKK(クルド労働者党)のテロ、犯人不明の殺人は90年代を混沌の時代へと引きずり込んだ。

そして、それに続いて、御想像のように、1997年2月27日に軍による政治干渉が発生した・・・政府は辞職を強いられ、そして大統領の絶大な力によって政党は解党された。民主主義が再び頓挫した。

このプロセスは、1960年5月27日クーデターから始まったものであり、統制政権の全共謀者、すなわち、軍や官僚の一部や、統制政権の特に司法上層部における代表者達、大統領、MGK(国家安全保障評議会)、HSYK(裁判官・検察官高等委員会)、YÖK(高等教育機構)のような組織、一部の政党、大学、NGO機関は統制体制の継続にしばしば重要な貢献をしてきた。 

60年クーデターに対し、裁判官や検察官は誰一人として抵抗しなかった。さらに、ヤッスアダ法廷で行われた裁判において、司法当局は多くの不正に加担した。裁判所長官と裁判官達は、メンデレス首相と彼の同僚達に「あなた方をここに連行するよう命令をした方々が、このように望んでいるのです」と伝えた。そして、彼らは我が国の法制史上最も無法で、最も恥知らずな決定に署名をし、メンデレス首相と他二名の大臣が絞首刑となる原因を作った。

エルギン法相はさらに、80年クーデターの後、裁判官・検察官高等委員会の委員達が、ケナン・エヴレン将軍を訪問し忠誠を誓ったこと、そして当時17歳だったエルダル・エレン氏を含む大勢の若者たちを絞首刑に処する決定を下した、と述べた。

1997年の「2月28日プロセス」の頃においても、状況は変わっていなかったと述べたエルギン法相は、「裁判官や検察官たちは、参謀司令本部にバスで運ばれてブリーフィングを受けた後、クーデター首謀者達に対し、立ち上がって最も長く拍手をしたのは、彼ら司法界の人々だ」と語った。

エルギン法相は、クーデターや「書簡によるクーデター」に対し、裁判官や検察官たちが、パキスタンで起こったようには行動せず、また辞職もしなかったと述べた。さらにエルギン法相は、「司法上層部の長官や長官たちの委員会は、クーデターに抵抗するどころか、政府に対して政治的な発言や声明を出すことで政治に干渉した。憲法で政府の合法性を監査する権限は司法にはないと明記されているにもかかわらず、憲法や法律を無視し、法の権限を強奪して、立法や法の施行に干渉を行った」と述べた。

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( 翻訳者:田中優美・濱田裕樹 )
( 記事ID:19567 )