9月12日に六度目の国民投票
2010年07月11日付 Yeni Safak 紙

9月12日日曜日に、トルコ国民が久しく切望し変更を望んでいる憲法改正法案の投票が行なわれる。

今日までに5回の国民投票を行なったトルコ国民は、今回の6回目の国民投票にあたり、長年批判してきた9月12日(クーデター後の)憲法について改正が行なわれるべきか否かについて態度を決める。憲法改正を認めるときは『賛成』票を、認めないときは『反対』票を入れることになる。

主要野党の共和人民党と民族主義者行動党は、すでに旗色を鮮明にし、憲法改正については『反対』票を入れると宣言した。この一方、平和民主党は、国民投票をボイコットするよう呼びかけを行った。しかし、公正発展党、至福党、大統一党は、国民投票で『賛成』票のために動くだろう。クルド政党の中から参加民主主義党(KADEP;Katılımcı Demokrasi Partisi)とクルド正義自由党は、平和民主党の呼びかけるボイコットに反対し、(1980年)9月12日クーデターの復讐を果たすためクルド人に選挙に行くよう促し、『賛成』票を求めている。

■トルコは、『賛成』が好きである。

トルコはこれまでに5回の国民投票を行なった。これによると、最初の国民投票は1960年5月27日の軍事クーデター後1961年憲法のために行なわれた。1961年7月9日の国民投票で1961年憲法は、38.3%の反対、61.7%の賛成で承認された。

2度目は1982年憲法の為に国民投票が行なわれた。1982年11月7日の国民投票には、1888万5448人が投票した。1721万5559票(91.37% )の賛成票、1626万6431票(8.63%)の反対票がでた。1982年憲法は、結果発表と共に1982年11月9日に施行された。

3回目の国民投票は、1982年憲法の暫定4条によって、スレイマン・デミレルやビュレント・エジェビット、ネジェメッティン・エルバカンといった政治家達への(政治活動)禁止が廃止されるかどうかを争点に、1987年9月6日に行なわれた。2334万7856票の有効票のうち1171万1461が賛成票、1163万6395票が反対票であった。このようにして、暫定4条は廃止された。

第4回目の国民投票は、憲法127条の地方選挙を1年早く行なうかどうかであった。1988年9月25日の投票の結果は、65%の反対票と35%の賛成票であった。

■2007年大統領選挙

トルコは、最後の国民投票を2007年10月21日に経験した。 2007年にあった大統領選挙での危機を乗り切るために、5678号のトルコ共和国憲法のいくつかの条項を変更させる法律に関して投票が実施され、大統領の国民による選出、任期の7年から5年への短縮、国会議員選挙の5年から4年への短縮、議会審議の成立において367名の定足数を超えなくてもよいといった内容を含む是正が問われた。結果は、賛成票が反対票の2倍であった。

これによると、2881万3185人が投票した9月21日の大統領選で69.123%が賛成票を投じ、30.876%が反対票を投じた。アンカラで賛成票が65.57%、イスタンブルで66.71%、ディヤルバクルでは94%であった。イズミルでは、反対が51.31%というように一定の反対票もあった。投票で90%を越える賛成票がアクサライ、バトゥマン、ビンギョル、ビトゥリス、ディヤルバクル、エルズルム、ハッキャーリ、スィイルト、シャンルウルファ、ヴァンで投じられた一方、トラキヤ地方、ムーラ、トゥンジェリ、アイドゥンでは反対票が賛成票を上回った。

■10月21日にいたる過程

(2007年)10月21日に国民投票が実施されるにいたった過程は以下でとおりであった。4月26日にアブドゥラー・ギュルが候補者となった大統領選挙が実施されたが、(元最高裁判所共和国検事長の)サビフ・カナドオールが(大統領選挙を無効にする)法的な手法を発見し、それにより、国会審議成立に367名以上の定足数が必要となった。こうして、共和人民党と憲法裁判所の態度とによって、本会議が大統領の投票のために十分な数を確保できず、成立しない状態になった。

367名の壁を公正発展党は、憲法改正法案を提出することで切り抜けようとした。法案は祖国党の支持により可決された。しかし、当時の大統領アフメト・ネジデット・セゼルにより法案は差し戻された。議会は5月31日に再度可決した。2度目の差し戻しの権利がないセゼル前大統領は、その法案を国民投票にかけた。憲法によると国民投票に入る期間は、法律が官報に載ってから120日後である。7月22日に選挙を行なう決定をした公正発展党は、この期間を45日に減らし、国民投票を総選挙と同時に行なうこと望んだ。しかしこの計画もセゼル前大統領によって差し戻された。国民投票が7月22日に間に合わないことがわかると、120日後の最初の日曜日に計算して、2007年の10月21日と決定したのだった。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:19665 )