「ちゃんとしたトルコ語を話せ!」ラジオ・テレビ高等機構、TVドラマに警告
2010年08月11日付 Radikal 紙
ラジオ・テレビ高等機構(RTÜK)は、「トルコ製」というタイトルのテレビドラマで使われているトルコ語が間違っていると指摘し、放送元のショウTVに説明を求めた。
RTÜKが指摘したのは、ドラマ「トルコ製」の主人公であるアビイェ、エルマン・クズ夫妻の話す「間違ったトルコ語」。二人の使う単語や表現を一つ一つリストアップしたRTÜKの専門家たちは、わずか2話の中で誤った表現が81もあると明らかにした。
RTÜKは、ショウTVが今後15日以内に提出する説明が十分でないと判断された場合、「青少年の身体・知能・精神の発達に悪影響を及ぼす可能性のある番組は、青少年が視聴できる時間帯で放映してはならない」といった放映規定に違反するものとして「番組の中止」を決定する可能性がある。
ドラマのクズ一家が使った「間違い」についてリストを作成したRTÜKの専門家たちは、単語、慣用句、格言、固有名詞、肩書き、地名、専門用語、外来語に対し、それらの「正しい」形を示した言わば「クズ語辞典」をまとめた。
RTÜKの報告書の概要は下記の通り。
「ドラマでは単語、慣用句などのあらゆる言葉が間違って使われている。会話の中で、スラングが過剰に使われ、子どもや若者の悪いお手本となっている。RTÜKの情報センターにはこのドラマに関する苦情が寄せられている。親からは、ドラマの中で使われる誤った言葉やスラングを子どもに説明するのに苦労する、子どもたちがドラマの言い方を真似していつも使うようになってしまった、といった声が挙がっている。テレビは様々な形で視聴者に影響を与え、社会生活の形成にも重要な役割を持っている。テレビでのスラングや間違った言葉使いは、小学校期の子どもや若者に悪影響を及ぼすものである」
RTÜKの報告書には、ドラマ「トルコ製」に関して下記のような言語協会事務局からのコメントも載せられている。「言葉を崩し、社会的価値観を軽視することで笑いを取ろうとすべきではない。一部のコメディドラマは、かつてのコメディの巨匠たちを貶めるほどにレベルが下がっている。テレビは現在最も影響力のある情報手段の一つであり、特にトルコのような教育レベルや言語意識に不十分なところがある国では、テレビ番組の管理者、ドラマ制作者や脚本家らはその影響をよく考慮する必要がある」
一方、本紙がインタビューした言語学や児童教育の専門家の中には、RTÜKの対応に批判的な人もいる。「言葉を芸術的な形で壊すというやり方もある」「政府の介入によって言葉を支配することはできない」「子どもたちに間違った言葉を覚えさせないためなら、(放映を中止せずとも)有用な対策はある」
教育学者 メルダ・アランタル博士:
もちろん、ドラマの中の誤った表現は子どもたちの言語に悪影響を与える可能性がある。しかし子どもたちの年齢が重要だ。12~13歳以上の子どもたちは、そこで冗談が加えられていることを理解する。学齢期前から思春期までの子どもたちは影響を受けるだろうが、ここでポイントとなるのは製作側と家族の対応だ。家族は、RTÜKが番組の最初に表示する対象年齢についての注意によって対応できる。ドラマをより広い層に見てもらいたいならば、放映中に正しい表現の字幕を入れたり、番組の終わりに正しい単語や慣用句を知らせることもできる。
作家 ネジミイェ・アルパイ氏:
言葉を芸術的な形で壊すやり方もある。芸術的な目的で言葉を使うことは正当なことであり、誰からも非難されることではない。問題のドラマを見てはいないが、しかし言葉というものは、1キロのトマトのように暑さやなんかで駄目になるというものではない。反対にこういった使い方は非常に創造的であり、ユーモア作品に生かされる。ユーモア作品はしばしばこのような形で生み出されるものだ。従って、RTÜKの対応は言語学にも相反するものと言える。今回の問題の本質はこれで、言葉が芸術的に使用されることは、壊され駄目になることとは別である。
言葉といえば、なぜかいくつかの特定の番組が思い出されるが、本当は非常に多くの作品がある。文学もある。だがこれら全てではなく、言葉遊びをする番組だけが挙げられる。大人も子どもも影響を受けるが、子どもはそこに冗談があることを大人よりもよく区別するものだ。RTÜKの言語学に関心を持たない人々は、カフェでの知識程度でものを言っている。私が説明したことを認識していれば、この件に関しても寛容なはずである。(RTÜkの対応は)十分な専門的知識に基づくものでは無い。
作家/言語学者 セヴァン・ニシャンヤン氏:
このような話は私には非常に滑稽かつ哀れに思える。国家に属する一組織がこのような役割をもち、言葉を監視するのは無意味である。
市民団体が同じことをするのならまだわかる。社会の一部の人々による、言葉をどのように使うかの選択や考えだ。しかし国がこれに警察のように介入することは時代遅れと言わざるを得ない。こういう使い方は口に肉体的に悪影響を及ぼすから言葉にとっても良くないはずだ、と仮定するのは無知の極みである。ある流行が生まれ、人々はそれを真似するようになる。そうして言葉は変化していくものだ。言葉が壊れるとはどういう意味か?言葉は神から与えられた神聖な何かではない。言葉が壊れたという話に賛成するのは、大概70歳以上の人々である。言葉を監視する者たちに対しては引退を待つしかない。
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( 翻訳者:湯澤芙美 )
( 記事ID:19922 )