「トルコ人のオスマン帝国への見方がかわった」AP通信
2010年08月17日付 Hurriyet 紙

世界最大手の通信社の一つであるAP通信は、トルコにおいて近年見られるオスマン朝時代に対するアプローチの変化に関し、興味深い分析を報じた。以下がその分析の概要である。

今月ミュージシャン、ダンサー、アクロバットや仮装を行なうパフォーマーら100人が、かつてのスルタンの住まいであったトプカプ宮殿の周辺で、オスマン朝時代を想起させるようなショーを行なっている。また、イスタンブルの国際空港ではオスマン詩に関する展示が行なわれている。帝国領のあらゆる地域の味覚を、完璧なまでに融合させたオスマン宮廷料理もとても流行っている。

こうした回顧は重要である。この100年間、トルコ人にたいし、オスマン帝国に懐疑的な目を向けるように言われることが多かった。イスタンブル征服や帝国初期における戦勝の数々にノスタルジーを感じるのは良いことだったが、スルタンの奢侈は堕落として見られ、現代のトルコにとってはお手本にならないと考えられていた。

今日オスマン朝の遺産は変化を遂げつつある。

■「トルコにとってオスマン朝とは何か?」

トルコはもはや、自らを西洋の小さな仲間と見なしていたような国ではない、トルコは(中東)地域の一つの勢力である。外交官や企業家らはイラク、イラン、シリア、またはかつて帝国領の一部であった他の土地で活動している。こうした自信ある態度のよりどころは、帝国時代の伝統的儀礼や多元主義、イスラムといったものにあるのだ。

こうした新しい見方は、トルコのアイデンティティにまつわる議論をも反映している。『オスマン帝国 1700~1922年』の著者である歴史家のドナルド・カーター氏は、「これが真の論点です、すなわちトルコにとってオスマン朝とは何か?ということです」、と述べた。オスマン朝における村人や労働者階層に関し熱心な研究を行っているカーター氏は、「この問題について100年間議論が続いています。相互に考えを出し合っています」と話した。

オスマン朝の遺産に関する議論にムスタファ・ケマル・アタテュルクを外すわけにはいかない。今日アタテュルクの写真は、役所や商店や家々の壁を飾っている。彼の名を冠した道やスタジアムが多数存在する。アンカラを訪問した外国の首脳たちがアタテュルク廟を訪れるという慣例も広く定着している。アタテュルクの記憶を侮辱すると罪になる。

トルコ人の大半は、危機的時代にアタテュルクがトルコを救ったと信じている。しかし最も強力なアタテュルク主義者でさえ、懐疑や疑念のない忠誠心は民主主義に不釣り合いであることを認めている。

■オスマン朝の宗教的寛容さ

オスマン朝研究者らはスルタンが一般的にキリスト教徒や他の少数派に対し寛容に接し、これが帝国の寿命を延ばしたことを明らかにしている。イスラエルを最も厳しく非難した人々の一人であるタイイプ・エルドアン首相は、以前行なった会見において、オスマン帝国の存在はトルコ人がユダヤ人に敵対的でない証となっていると語っていた。

トルコにいる大部分のユダヤ人のルーツは、15世紀にスペインからオスマン帝国に逃げ込んだユダヤ人たちである。

トルコ大国民議会(TBMM)外交委員会のスアト・クヌックルオール委員長は、「共和国の歴史はオスマン朝時代をとても後進的な暗黒の時代として位置づけました。今我々は、我々の歴史認識におけるアンバランスを調整しているのです」と述べた。

■我々は「ネオ・オスマン(主義者)」ではない

しかしながら政府は、一部の批評家がトルコの新たな対外政策のアプローチに対し「ネオ・オスマン(主義)」という表現を用いることに異議を唱えている。政府関係者は、トルコのこうした政策は、ヘゲモニーを確立するといったことは目標にしていないと明言している。

オスマン朝が再び人気を得たことで、問題点が蔽い隠されてしまう恐れもある。トプカプ宮殿博物館のイルベル・オルタイル館長は、オスマン帝国はトルコ国民のアイデンティティの基盤であると述べた。オルタイル館長は、トルコ人はこの時代の研究に真剣に取り組んだとし、オスマン朝の完全な理解のための道のりは長いものであると語った。オルタイル館長は「我々は完全に明らかにすることはできませんでした。我々の知識にも間違いや欠落はあります」と述べた。

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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:19966 )