「ビザンツ最後の城砦」発掘はじめる―トルコでの関心はなぜ、低い?
2010年08月18日付 Radikal 紙
イスタンブルで中世から残っている唯一の城砦ポイラズキョイのヨロス城砦。長年放置されていたビザンツ城砦で発掘が始まった。発掘主任は、世界中が発掘に関心を寄せているが、トルコでは全くないと述べている。
ある作業員は土を篩にかけている。ある考古学者はオスマン時代から残っていると推測されている水道管をブラシで掃いている。ある建築家は記録をとり、美術史家は計測をしている。テープがひかれており、重要な場所は鉄の扉で保護されている…。ビザンツ時代の最後の城砦ヨロスではこのような光景が見受けられる。
ヨロス城砦は、イスタンブルのボスフォラス海峡から黒海への出口にあり、アジア側の最後の拠点であったポイラズキョイに位置している。時が過ぎ、何百年も放置され、人々が不注意に使用していたにもかかわらず、16メートルある二つの塔は未だに残っている。
この価値ある建造物は、何年も放置された状態だった。城砦の下にある部屋は家畜のえさ場になり、コンロが置かれたピクニックスポットと変わってしまったが、ついにこのことが意識された。イスタンブル大学が主導でヨロスの発掘作業が開始されたのだ。
発掘の許可は閣議決定で取られた。イスタンブル大学と文化観光省は発掘に物的支援をおこなった。ヨロス城砦には15人の専門家チームがこの間集中的に作業する。城壁にスプレーで書かれたいたずら書きペイントをヘラやワイヤーブラシで消す作業をしているが、ダメージは大きい。
■ モノグラムが盗まれた
イスタンブル大学美術史家のチャーラル・エルドアン氏は、「この2月、城砦入口にあったモノグラム、もとい大理石に浮き彫りで描いたレリーフが盗まれた。警備はいなかったため、泥棒は壁を壊して、モノグラムを盗んだ。地面にベッドのようなものを置き、レリーフを壁と一緒に上から落としたらしい」と述べた。
ヨロス城砦発掘責任者のイスタンブル大学のビザンツ美術史家のアスヌ・ビルバン・ヤルチュン教授によると、ヨロスの名はヒエロン(聖地)が由来である。マルマラ海と黒海を往来する船はここにいたってお祈りをし、願い事を唱えていたと推測されている。ビザンツーヴェネチア連合とオスマンージェノヴァ連合との間で、ここで大きい海上戦争が起こった。ボスフォラス海峡のこの地点で多くの沈没船があるといわれる。度々城砦の支配者も変わっていた。相続き戦争が起こった。オスマン時代では税関や駐屯地として使用されていた。ヨロスはイスタンブルで唯一中世から残る城砦である。
ヤルチュン教授は城砦の興味深い話を述べた:「ビザンツの一番の脅威はロシア人の襲撃だった。そのため、その防御策としてヨロス城砦が12世紀の終わりから13世紀の初めに建てられたとされている。似たような城砦はヨーロッパ側にもある。しかしヨーロッパ側の城砦はわずかしか残っていなかった。二つの城砦間でボスフォラス海峡を鎖で結んだと述べる史料があるが、今日までその痕跡は見つかっていない。おそらく水中調査で判明するだろう。」
ヤルチュン教授は、城砦が今日まで誰の関心も得なかったことをこう述べている:
「奇妙なのはボスフォラスが全く関心をひかなかったことだ。今まで、オスマン朝の夏の別荘や亭は関心を引いた。だれも注目していなかったが、私たちがボスフォラスの中世や古代の地誌学的研究を始めた時、奇妙なことにでくわした。トルコ以外の大勢の科学者が我々の発掘に参加したいと望んだ。でもトルコ本土と言えば全く関心がない。ヨロス城砦にはいつも大きな関心が向けられていない。長くここでは非公式な発掘が行われていた。共和国建国以前から始まっていた非公式発掘は現在でも続いている。
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( 翻訳者:小幡あい )
( 記事ID:19982 )