ディヤルバクル市長のバイデミル、KCKの指導者はカラユランと発言
2010年10月24日付 Yeni Safak 紙

ディヤルバクル広域市のオスマン・バイデミル市長は、「KCK(クルディスタン社会連合)はPKK(クルド労働者党)そのものであり、指導者はムラト・カラユラン」であると述べた。

バイデミル市長は、ハベル・チュルクのディデム・ユルマズ・アスラン氏が司会を務める「トルコの動向」という報道特別番組で質問に答え、「KCK執行部のトップは、カラユラン氏本人です。では、執行部のトップがカラユラン氏なら、私はどうしてKCKのメンバーになるのですか。私に向けられた中傷はどれも説得力のないものです。私は組織とは全く関係ありません。それなのになぜ、私は39年もの懲役を求められているのでしょうか?KCKはそもそもPKKの名前です。PKKが名前をKCKに変更したのです」と述べた。

バイデミル市長は、「合法的政治ということに関して言えば、合法的で民主的な政治の担い手たちを刑務所に入れて、その本来のあり方とはかけ離れた状態のままでは、本当の意味での合法的で民主的な政治への道をを開くことはできません」と述べ、今回のKCKに対する一斉摘発を「大失敗」だと見なした。

■「PKKがあきらめても、私はあきらめない」

バイデミル市長は以下のように続けた:

「世界中のどの非合法組織も、これほど長くは存続しませんでした。これには別の理由があります。例えば明日、PKKが組織を解散したとしても、『この闘いをあきらめた』と言ったとしても、私はあきらめません。クルド人の闘いを、クルド人の本質を守る闘いを、その権利と公正のための闘いを。

■『 PKKを生みだしたのはトルコの否定政策だ』

一人のゲリラ兵も、一人の警官も、一人の兵士も、命を無駄にしてはなりません。私が犠牲になりましょう、我々はPKKがあるからといって、この民衆の正当な要求をないものにはできません。PKKが私に指示持を与える必要はありません。PKKは、どのクルド組織もできなかったことをやりました。PKKを生みだしたのは、70年から80年の間にわたり行われてきた、クルド人を否定する政策であり、それ以外の何者でもありません。PKKはその役割を果たしました。今(PKKが)なくなったとしても、クルドの民衆は、(トルコ人と)共に生きることも、自由を諦めることもありません。PKKがなくても、この闘いは続きます。
(ムラト・カラユランが主導権を握り、PKKが休戦を撤回した)2004年から後、新しい世代が登場しました。私の同輩は積極的に政治と関わり、もちろんある人は刑務所に入りました…。もうそんなことはやめて、合法的な政治への道を開きなさい。私はディヤルバクルで100万人の人々に、「(PKKと戦うトルコ人)兵士に向けた銃弾を、私に向けなさい」と言い、人々は(これを)拍手で称賛しました。やじることもできたのに。逆にあなた方がKCKや、あるいは他の何らかの名目で私を刑務所にいれたとしても、私がこの社会に対して言えることは何もありません。

■『PKKはその役割を果たした』

PKKはその役割を果たしました。もはや、役割と使命は合法的な政治の場にあります。しかし、合法的な政治への道は国家によって開かれなければなりません。最終的にPKKは武力による戦闘を放棄するでしょう。私はその希望を失いませんでした。PKKは説得により、戦闘を放棄させられることになるでしょう。PKK党員のうち、ある人々はCHP(共和民主党)に、またある人々はBDP(平和民主党)に、あるいは他の政党に入り、今度は政治活動を行うでしょう…我々はこれを不快に思ってはなりません。」

バイデミル市長は、裁判所が自身に対して海外渡航を禁止したことにも言及し、「私が望むなら、今朝にでも国外に逃げましょう。しかし行くことはないでしょう。生まれたのもこの地なら、死ぬのもこの地です。私はこの土地の辛苦を他の土地の甘美に置き換えたりはしません」と述べた。

バイデミル市長は、クルド問題の解決によって、民主的で豊かなトルコが出現するだろうと述べた。そしてクルド問題の解決なくしては、近隣の国々と「問題がない」政治状態に至ることはできないことを強調して、以下のように続けた:

「(トルコからの)分離とはならないでしょう。共和国の70年がこれほど辛く、トラウマに満ちている原因は、この分離の恐怖です。このためクルド問題について調査報告を行った大学は一つもありませんでした。我々が意図する「自治」とは、地方分権のことです。これはディヤルバクルだけでのことではありません。黒海地方でも、他の地方でもです。全ての地方が地方議会をもつようになることです。しかしもちろん、この構想の中には国民議会もあります。我々の力とエネルギーを、互いに妨害しあうことに用いるのはやめましょう。試しに行ってみましょう。兄弟であるトルコの人々の権利は、何であれ私の権利でもなければなりません。私は自身の20年をこの闘いに捧げ、子供に母語を教えることもできていません。」

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( 翻訳者:能勢美紀 )
( 記事ID:20488 )