エルドアン首相、イマーム・ハティプ高出身であるのを誇りに思う
2010年12月05日付 Yeni Safak 紙

エルドアン首相はイマーム・ハティプ高校卒業であることを、人生を通じて誇り高き財産として胸に抱いていると話した。

イマーム・ハティプ高校卒業者・関係者協会(ÖNDER)により、ベイオール・アナドル・イマーム・ハティプ高校にて第6回イマーム・ハティプ関係者大会が行われた。そこで演説を行ったレジェプ・タイイプ・エルドアン首相は、イマーム・ハティプ高校の創設に貢献し、身を投げ打って献身した当時の首相アドゥナン・メンデレスを始めとするすべての寄与者たちを、(彼らに)神のご慈悲があるようにと思い、また感謝の気持ちをもって追想すると述べた。

「イマーム・ハティプ高校卒業であることを、生涯の誇り高い財産として胸に抱いている」と話したエルドアン首相は、自身の子どもたちの全員がイマーム・ハティプ高校卒業であることも誇りに思っていると述べた。

エルドアン首相は「神のお許しにより、息を引き取るその時までイマーム・ハティプ卒の資格を持つという誇りと名誉を持ち続ける」と述べた。同校卒を自慢の種にしているわけでもないとする同首相は、以下のように述べた。「(日々の営みとして)レンガを重ねる人々に、言葉を教える人々に、この信徒の衆の成功のためにアナトリアの各地で祈りを捧げるすべての人々に、この場から私個人の名の下に、国民の名の下に再度感謝の意を捧げる。」

エルドアン首相は、故マフムト・ジェラーレッティン・オクテム師がイスタンブルのイマーム・ハティプ学校にてアラビア語の教師をしていたことや、ヌレッティン・トプチュ氏がジェラーレッティン・ホジャ(先生)のことを「彼は遅れてやってきた(オスマン朝期の代表的イスラム知識人である)エブッスウード・エフェンディ、もしくはイブン・ケマルに類する人物である」と紹介したことを話した。

1950年代初頭にマフムト・ジェラーレッティン・ホジャが当時のテヴフィク・イレリ大臣(注)と行った会見の結果、1951年に7年制のイマーム・ハティプ学校が開校されたことにも触れ、以下のように述べた。

「故ヌレッティン・トプチュ氏が、ジェラーレッティン・ホジャに関して述べた次のような逸話は、本当によい教訓となるものである。『あるよく晴れた日に学校へ行くと、ジェラーレッティン・ホジャが70歳を迎えた老齢ながらトイレの清掃をしている姿が目に入った。私は『先生、それは若者の仕事です。若者にさせなさい』と言った。すると彼はこのように答えた。『若者は、自分が行った仕事と人柄とを関連付ける。後日トイレを掃除して学んだと言ってコンプレックスを抱くようになる。彼らを丈夫な苗木のように育てることがわれわれの仕事である…』。そう、1920年代に、そしてその後1950年代にも蒔かれたその種は、ジェラーレッティン・ホジャや彼のような立派な多くの人々が捧げた尽力の結果として、今日大きなプラタナスの木となったのだ。』

「アザーン(礼拝への呼びかけ)が(アラビア語ではなく)トルコ語で詠まれた時代であった。(関係する)本の出版が禁止され、焼却処分された時期であった。物と魂とが分離されることが望まれ、アナトリアの伝統文化から切り離されようとされた日々だった。(そのような当時にあって)恐怖に苛まれることも絶望に陥ることもなく、この国と若者を信じた献身者たちは、暗闇の中でロウソクを灯し、希望を燃やすために心を捧げたのだ。」

■恥ずかしく思ったことはない

エルドアン首相は、当時(上記のような)試みを行った人々がトルコの今日と未来に献身する若者を育てることに成功したと話し、ネジプ・ファズルのいくつかの詩を引用しつつ以下のように述べた。

「そうした偉大な人々から学んだ者として、この(伝統や学校の)仕組みを見放しはしなかった。アナトリアを、自身のことは二の次として献身した人々を、そしてわれわれに祈りを捧げた人々を恥ずかしいと思ったことはない。神のお許しにより、ジェラーレッティン先生のようにこの仕事を先導した偉大な人々を恥ずかしく思ったことはないし、これからも思うことはないだろう。」

「イマーム・ハティプ高校は、われわれが学んだ当時もその後も、あらゆる侮蔑や侮辱、圧力そして障害に耐えてきた。教師のなかには、われわれのことを『(モスクの)葬儀番』、『田舎者』、または『百姓』と言った人々や、黒人と言った人々、われわれに『(普通の学校で学んでいないことから)お前たちは医者にはなれない。技術者にもなれないし、郡知事にも県知事にも政治家にもなれない』と言った人々がいた。われわれに『(お前たちは)村長にすらなれないぞ』と言った人々がいた。」

「神のおかげで、われわれは国民を信じ、国を信じて、絶望を側に近づくことはなかった。怯むことなく、どんなレベルでも国民が受け入れる所となったのだ。」

(注)関連記事
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070312_153418.html

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:20866 )