トルコ音楽愛好家ならだれでも知っているミネ・ゲチリのファーストアルバム「漆黒のまつ毛の女」は、全曲ゼキ・ミュレンのカバー曲からなっている。ゲチリは、新しい曲ではなく「芸術の太陽(ゼキ・ミュレン)」の歌を忠実に歌うと宣言した。
エジプトの音楽愛好家たちは、彼女を「トルコのウンミュ・ギュルスム」と呼んでいる。アラビア語を知らなくても、その艶やかな声はすべてを忘れさせるほど強い力を持つ。彼女がアラビア語の曲だけを歌っていると思っているならば、それは間違いだ。事実、「私が生きている意味」と彼女が言うトルコ音楽の作品たちをみなに愛されるようにすることは、彼女の人生の目的となった。近頃の単調な歌詞や似通ったメロディーを聴くことに飽きてしまった人々に是非おすすめしたい。ここでは、多くのトルコ音楽愛好家たちならだれでも知っているミネ・ゲチリについて話すことにしよう。昨年末にファーストアルバムを発売した彼女は、自身が憧れているゼキ・ミュレンの歌を歌っている。
■「芸術の太陽(ゼキ・ミュレン)」に対する忠誠心
「漆黒のまつ毛の女-ゼキ・ミュレン集」(メガ・ミュージック社)というタイトルのアルバムは、ゲチリの「芸術の太陽」に対する忠誠を果たすという願いによって誕生した。収録曲すべてがゼキ・ミュレンの作品からなるこのアルバムは、ある意味初の試みである。アルバムには、「悲惨な人生」、「漆黒のまつ毛の女」、「放浪者」といった多くの人に歌い継がれる名曲とともに、ミュレンの「ある魂の物語」、「かわいい花のように」、「落葉の季節」といった曲も収められている。さらにはゼキ・ミュレンが自身のアルバムに収録しなかった曲さえ、このアルバムには入っている。ミネ・ゲチリはこれらの歌を彼女独自の解釈で歌っている。ヒュセイン・ビトゥメズによる音楽監修のもと作られたこの「漆黒のまつ毛の女」は、静かな旅路の記録のようだ。1曲も気に入らない曲がない。クラリネットやバイオリン、ダルブカ(太鼓の一種)などの聴き慣れた楽器のほかに、ピアノも使用されている。
ミュージシャン一家の子どもとしてアマスィヤにて生まれたミネ・ゲチリは、6歳で音楽を始めた。小学校入学とともにサムスン市立音楽学校とサムスントルコ音楽協会に入り、そこで高校を卒業するまでバイオリンと声楽の教育を受けた。
大学教育はイスタンブル工科大学(İTÜ)国立音楽学校の楽理学部で学んだ。2004年にブルサでのゼキ・ミュレン歌唱コンテストにて1位となった。ソロとしての活動のほか、アイウシュウ・グループのソリストとしても音楽活動を続けるミネ・ゲチリは、アイウシュウ・グループとともに世界各国でトルコを代表してコンサートを行なった。
これらすべての活動の後にアルバムを発売することを決めた彼女は、ファーストアルバムをどうやって制作したかを以下のように語った。「どんなアルバムにしようかと考えていたときです。ある日ゼキ・ミュレン氏を追悼するためにボドゥルムで開催されたコンサートに招待されました。コンサートの後、ミュレン氏の家を訪問しました。彼が水を飲んだグラスや着ていた服などを見て、ずっと頭の中にあったゼキ・ミュレンの曲だけのアルバムを作る考えが固まりました。その後(曲の)レパートリーを考えていきました。ミュージシャンの友人たちでさえも、『このアルバムには知らない曲がたくさんある』と言いました」
■トルコの「ウンミュ・ギュルスム」
ミネ・ゲチリはその力強い歌声で、トルコの伝統音楽だけでなくアラビア語の歌も歌っている。この試みはエジプトでアイウシュウ・グループとコンサートを行う前に始まった。エジプトの人々に彼らの言葉で歌を歌い、彼らを驚かせたいと思った彼女は、ダリダという歌手の歌から2曲を、たった1週間という短期間で暗記してコンサートで歌った。エジプトの人々は彼女に拍手喝采を送った。その後のことをゲチリは以下のように話す。「記者たちは私にアラビア語で質問しました。しかし私がアラビア語を知らないと言うと彼らはそれを信じませんでした。『アラビア語を知らない人間が、これらの歌をこんなに美しく歌うことができるなんて有り得ない』と彼らは言って驚きました。私はこれらの歌をひたすら聴くことで覚え、歌いました。あのコンサートの後に、エジプトの大手新聞は『トルコのウンミュ・ギュルスム』という見出しで報じました。このことを私はとても名誉あることと思いました。今後のコンサートに向けて新しい曲を学んでいくつもりです。アラビア語の修得も考えています。」
(本記事は
Asahi中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:21144 )