Yilmaz Ozdil コラム:リビアには何人トルコ人はいる?
2011年02月23日付 Milliyet 紙

リビアにはトルコ人が何人いるか?
「5千人以上...」
「1万5千人くらい...」
「2万近く...」
数字はいつも適当だ。
揺れてばかりだ、なぜなら担当者も知らないから。

5日後。
首相がやっとこ言うには、
「少なくとも2万5千人…」
上は計り知れない。

(リビアから)戻ってきた人数さえ不明確だ、諸君。700人という説、少なくとも1100人という者…。
『トリポリで働いていたんですか?』
『いえ、私はエアバスのスチュワーデスよ』
彼らは飛行機で戻って来ているのに、それさえも数えられない。

例えば、スマトラ沖の津波の時・・。

あのとき地震のあった場所に何人のトルコ人がいるのか、どうやってわかったかご存じか?そこにいたサッカー選手、エムレ・アシュク選手とスアト・カヤ選手からだ。エムレはその頃所属していたベシクタシュの幹部らに、スアトはガラタサライのファンであった当時の副首相、メフメト・アリ・シャーヒンに電話した。「助けてくれ」と。この電話があるまで、救助の飛行機も何も動いていなかった。(モルディブにいっていた)上流階級の連中は、(元女優の)セミラミス・ペカンの別荘に避難し、彼らが無事かどうかは(妹で歌手の)アジダ・ペッカンから聞かされた!

イラク戦争のさなか、(貨物を運んでいた)トルコ人のトラック運転手の首がバッサバッサと切られて殺されていた。誰の首が切られたのかは、切られた人の家族に聞いて、やっとわかったものだ。

一方で、(1999年のマルマラ)地震を思い出してほしい。
イスラエルの救助隊が来て、ギョルジュクの何千というがれきの中から、まるで自分で埋めたかのように、自国の民を見つけ出し、助け出した…。なぜなら彼らは知っているから、どこの国の誰が、そのときどこにいるのかを。

(私は確信しているが、ベルリン市役所に電話してベルリンにいる猫の数を聞いてみるといい。それぞれの家に何匹いるのか彼らは回答するだろう。トルコ大使館にも電話しよう。在住トルコ人の住所リストを出せたなら、タクスィムで猫の物まねをしてもいい。)

(もっと身近な話をしよう。エラズー県コヴァンジュラル郡で地震があった。たった300世帯の村で、3日経っても死者数を出せなかった。61人が51人になり、41人に落ち着いたが結局これも怪しい。)

9.11はどうだ。
ツインタワーにトルコ人がいたかどうか、何日たっても、政府から聞くことができただろうか?
できなかった!
我々はどうやって知ったか?
タワーで働いていたトルコ人のサンドイッチ屋からである!

テレビに出て説明していたのを忘れられない。「大きく揺れた。スピーカーで『建物から出ないように』というアナウンスがあった。アメリカ人たちは指示を聞いて部屋で座っていたが、我々トルコ人はすぐに逃げた。もともと、運よく時間が早かったから、心配ない。アメリカ人たちは8時に仕事を始めるから、俺は仕方なく早く来てた。でも、テロは8時45分だった。その頃トルコ人たちはまだ仕事にきちゃあいない!下の階に降りたとき、皆が階段の右側を一列に並んで歩かせられていた。『なぜ左は空いているんだ?』と聞くと、『上る人のために空けてある』と言われた。私は左側からジェット機みたいに駆け下りたよ!」

迷える民…
自分の腹を自分で切るしかないのだ、我々は。

ではリビアといえば。

オズトゥルク・セレンギル。
男気あふれる最後の若者。
生粋の放浪者。
アイハン・ウシュクに次いでもっとも大金を稼ぎ、しかしそれが身に付かず、女好き、奔放、冒険家、一瞬にして金を浪費する記録の持ち主、今は亡き芸術家であった。トルコでは収まりきらず、70年代の終わりに思い立ちリビアへ向かった。カジノを開いたのである。

彼を招いたのはカダフィだ。
彼とカダフィに何の関係が?
カダフィは、キプロス侵攻の時にトルコ軍のジェット機にガソリンの援助をした。それで、トルコは当時カダフィに心酔した…。彼もまた、名声を高めるためにトルコで人気の芸術家に門戸を開いたのである。トルコの建設業者を自国に迎え入れたように。

話を戻そう。彼はカジノを開いた。酒は禁止にしつつ、こっそり売っていた。女なども…。もちろん、リビアの有力者や外交官などが列をなした。おかしな連中が皆集まり、その集合場所になった。だが12日後、「この男はスパイだ」と拘束されてしまった。オズトゥルク・セレンギル!

トゥルグトレイス刑務所に収監された。大使館に連絡し、政府に手紙を書き、知り合いに仲介を頼み…しかし出られなかった。6ヵ月半そこにいた。もはやどうにもならない。トルコも当てにならない。ここで腐ってしまう。自身の腹を自身で切る決意をした。

妻をリビアに呼び寄せ、「関係者」を見つけ、その後は自身の言葉で自身の口から語る。「運がわるかったんだ。逃げるしかなかった。いくつかの場所からからサインを受け取った。そのサインに従い、夜中腎臓が痛くなったと芝居を打った。もちろん金に物を言わせたんだ…。病院に向かう刑務所の車が港に着くと、モータボートでそこから飛び出し、沖で待っていた船へポーンと…。これには当時の額で1100万リラもかかった。その上、サハラ銀行に預けていた3900万リラはリビアに置いたままだ!」

これを読むと人は「大馬鹿者!」と言うだろう。

しかし・・・、今と当時では様変わりしたことはあるが、
いくつかのことは少しも変わっていない。
モルディブでセレブになってもいい、カイロで繊維工場主、ベンガジで建設業者でもいい…オズトゥルク・セレンギルのやり方でやるしかないのだ。トルコ政府を信じて行った土地で、状況はいつもこんな調子なのだ。

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( 翻訳者:湯澤芙美 )
( 記事ID:21612 )