エジプト:コプト・キリスト教総主教シュヌーダ三世、「社会正義」について
2011年02月27日付 Al-Ahram 紙

■「社会正義」について

2011年2月27日 『アル=アハラーム』紙

(コプト・キリスト教会総主教シュヌーダ三世)

社会正義とは、文明化した世界が切望する価値のなかで最も崇高なものである。世界創造の時から存在しているものとさえ言える。諸預言者、使徒たち、そして改革者や自由な思想家たちが唱えてきたものであり、今、宗教家たちが宗派・宗教の差を超えて訴えているものである。

社会正義とは平等と差別の不在を訴えるものであるが、この点についても議論することにしたい。差別と区分を最初に訴えたのは、選ばれた神の民(選民)という考えを持ちだしたユダヤ教徒である。自分たち以外の人々のことを彼らはGentilesつまり異邦人と呼んでいた。神の民という言い方は、今では世界中にいる神を信じるすべての人を指すようになっているが。

Anthropology(つまり人類学)ではNordicsという白人を他の人種より上に置き、その頂点にアーリア人を置くという別の区分がある。こうして北の人々と南の人々をその源において一般化した形で分けてしまう。

社会正義の観点からすると、我々は奴隷制の時代が終わったことを神に感謝する。そこでは人間が同じ人間を奴隷にし、買いとり、奴隷として使い、好き勝手に扱った。そうしたければ他の人に売り払い、ときには殺すことさえあった。それはその人の権利だったのである。このように、下僕と主人ということばはよく知られていた。これに関しては、我々は(預言者の)ユースフが下僕として売られたことを忘れはしない。

奴隷制は消えたとはいえ、非常に遺憾なことに、力を持つ人間のなかには下にある者を下僕のように扱う人がいるのを目にすることがある。誰もが「神は我々を自由な人間として創られたのだから、誰も我々を奴隷にすることなどあってはならない!」と訴えているというのに。

社会正義については、我々はまた経済と財産についても語らなければならない。神は大地を創られたとき、そこに生きるすべての住人に充分なほどの恵みを与えられた。そして神の恵みは涸れることなく存在し続ける。しかし今、問題があるとすれば、それは分配における間違いにあるのだ。これには多くの側面があり、個人に関わるものもあれば、社会全体に関わる部分もある。

社会主義(における生活)では社会的な格差の撤廃あるいは人々の間の融和が目指されることはよく知られている。一つの国民の間での階層差が広がらないようにと。とはいえ、頭がよく才能があり、収入を生み出すことができ、なにか企画に加わればそこで成功するという人と、そうではなく知恵もなければ動くこともせずそれによって貧しさに陥る人とを区別することは必要である。賢い人と愚かな人、あるいは行動的な人と怠慢な人、才能のある人とない人を平等に扱うのは社会正義ではない!人は誰も、その労働し生産する能力に従って賃金を受けとるべきなのだ。

だとすれば、社会のなかには複数の階層というものが存在するのは必然的である。しかし我々は、最も高い階層と最下位の階層の間でこの差異が大きなものになることを望みはしない。中間層が消えてしまい、社会が大金持ちと最貧層からなることなど望みはしないのだ!

こうしたことどれをとっても、すべての人々が一つの階層になることなど合理的ではない。でなければなぜ、人は苦労し、努力したりなどするのだろうか。そして苦労してもしなくても同じと感じるのであれば、内なる動機(やる気)など消えてしまうだろう。

社会正義の求めるところとして、我々は次のような人々について語らなければならない。それは働きたいと願っているのにその機会が与えられず、あるいは懸命に努力して大学での勉強を終えたのにその結果はただの失業であったというような、貧しい人々についてである。これをその人の罪であるとは言えない。そうではなく、それはその人のために仕事も収入も与えることのできない社会の欠陥なのである。

さらには勉強をしたいと望んでもその機会が与えられないという人々の問題もある。かつて国が掲げてきた無償の教育などすでに現実には不在になってしまった。アラブの偉大な文人であるターハー・フセイン(*1889-1973)が教育相であったときに言ったことば、「教育は水と空気のように必要不可欠なもの」ということばはどこかへ消えてしまったのだ。

子弟に教育を受けさせるのに必要な学校関係の経費の問題を前に、普通の人間はいったい何ができるというのだろう。家庭教師や(課外の)グループ学習の問題、そしてとりわけランゲージスクール(*英語などの外国語で一部の科目を教えるレベルの高い学校)の問題を前に。

これだけではない。ストリート・チルドレンの問題は、社会正義に関して最も大きな誤りである。それとともに、貧困線以下にあるとされる人々の割合の大きさもある。また生活に必要なあらゆるものが欠けているような僻地に生きている人々も多くいるのだ。

神に対して、そして人々に対して、国家は食べるもの、飲むもの、着るものに関し、国民に配慮する責任を持つ。必要最低限のものすら奪われていると感じずに暮らしていけるよう、保証しなければならないのだ。ここで我々は物価の高騰とそれに見合わない賃金レベルという問題と向きあうことになる。当たり前のことだが、食料の価格は貧しい人にも豊かな人にも同じである。誰か貧しい人の所へ自分の食料あるいは自分の子供たちの食料を持ってきたりするものなどいるだろうか?

同じように機会の平等というのも、社会正義の最も重要な原則のひとつである。しかし実際にはこれと矛盾すること、つまり雇用や昇進における身びいき、依怙贔屓、差別、不平等といったことが社会で起きているのは確かだ。こうしたことは、社会正義が認めない社会的抑圧の範疇に入ることなのだが。

ここで社会主義およびその意味という問題に入ろう。それは、我々全員が政治的な権利および社会的な権利を共有すること、そして祖国の恵みとその運命を共有することを意味するのだろうか。それとも社会主義という表現は明確な概念を失い、医療は国費で賄うということもなくなってしまったのだろうか。今では国民の多くが医療費を払えず、薬代を賄えず、自分の力ではいくつかの病気と立ち向かうことはできない状態にある。こうしたことはすべて、社会正義に反することだ。

我々は慈善団体及び協同組合が行なっていること、シェルターや医療奉仕の団体が行なっている活動を応援する。そして惜しみなく分け与える篤志家の活動にも。これらの活動を行っている人々はみな、国が賃金の引き上げに関して試みていること、機会があるごとに行おうとしていることがらを、支援していることになるのだ。できる限り完全で包括的な正義になるよう、あらゆる場を社会正義が支配するよう我々は祈っている。

*コプト・キリスト教会とは、エジプト土着のキリスト教会。マルコによる宣教から始まる。

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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:21652 )