故ネジメッティン・エルバカン、名言集
2011年02月28日付 Hurriyet 紙

昨日死去したネジメッティン・エルバカン氏は、その発言によって時に議論を巻き起こし、時に反発を招いた。さあこれがエルバカン氏の名言である。

■カダユフが焦げたら

エルバカン氏のトルコでの政治人生における最初の名言は、「カダユフ(訳注:小麦粉を細い麺状にしたものを用いた菓子の名)の底」であった。1960年後にスレイマン・デミレルのもとで組織された民族主義者戦線政権に加わったエルバカン氏は、政権への支援をいつ止めるのかということを、「カダユフによる喩え」を用いて説明した。エルバカン氏は「カダユフの底が焦げるかどうか様子を見る」と述べ、カダユフの底の焦げつきは政権を倒すタイミングを示すとの解釈がなされた。しかし「カダユフの底は焦げず」、エルバカン氏がこの政府への支援を止めることはなかった。

■スリム化するために行った

(1971年の)3月12日のクーデター後、憲法裁判所が国民秩序党(MNP)を閉鎖すると、エルバカン氏はスイスへ発った。そしてトルコに帰国した直後、「奴らは我々が逃げたと言っている、しかし我々はスリム化するために行ったのだ」と話した。1983年7月19日に設立された福祉党(RP)は、84年3月の選挙で4.8%の得票率によって議席を獲得。次の総選挙で指導者らに対する政治活動の禁止が解かれると、エルバカン氏は「我々は無罪になった」と述べ、党首の座に就いた。

■ジャガイモ信仰

スィヴァスでの会談におけるエルバカン氏の、福祉党に投票しない人々は「ジャガイモ教の信者だ」との発言や、「学校では子供たちに『私はトルコ人だと言えることは幸せである』と叫ばせている。これは間違っている。トルコ人がこう言うなら、クルド人にも『私はクルド人と言えることは幸せである』と言う権利があるはずだ」との発言は、トルコ政治史に大論争を巻き起こした。また「嵐の向かう先を決めるのは、蝶の羽ばたきである」、「イマーム・ハティプ関係者は我々の裏庭である」、「大学長がスカーフを被った少女に敬礼する日が来る」といった言葉も時代に刻印を残した。

■グルグルダンス

エルバカン氏は、反対派に向かって「出て行け」と応じた。首相在任中、ススルルク事件発生後に市民社会運動として始まった「絶え間ない明るさのための一時の暗闇」活動に対しては、「グルグル(訳注:七面鳥の鳴き声)ダンス」と名づけた。またススルルク事件を「バカバカしい」と一蹴した。

■血が流れるか流れないか

福祉党の解党裁判における、最高裁判所共和国首席検事局の最も重要な争点の一つであったトルコの「公正な秩序への移行」に対するエルバカン氏の次のような発言も、長い議論を招いた。「トルコは福祉党によって公正な秩序へ移行する、これは確かだ。移行期が穏やかなものになるか厳しいものになるか、血が流れるのか流れないのか。6000万人がこれを決定するだろう。我々はこの移行を穏便にやろうと言っているのだ。この移行を平和裏にやろう。我々は平和主義者だ、太平主義者だ。我々の歩む道は兄弟愛である。」

■三本の釘で意識的ムスリムに

エルバカン氏は、バルケスィルで行なわれた党員との会合で、このように語った。「至福党は工場だ。ムスリムを引っ張ってきて意識的なムスリムにするのである。いかにして意識的なムスリムを作るのか?ムスリムを連れて来て、頭に三本の釘を打ち込む。一本目はジハードの釘、二本目は毎週の集会の釘、三本目はミッリー・ガゼテ(イスラム系新聞)の釘である。頭に『ジハード釘』と『毎週の集会釘』と『ミッリ・ガゼテ釘』を打ち込まれた人は、立派な意識的ムスリムになるというわけだ。」

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( 翻訳者:篁日向子 )
( 記事ID:21662 )