コラム:大佐の小鳥たち
2011年02月28日付 al-Quds al-Arabi 紙
■大佐の小鳥たち
2011年02月28日『クドゥス・アラビー』
【イリヤース・ホーリー】
狂気と廃墟のただなかで、自分の政権の死を目の当たりにしているリビアのムアンマル・カッザーフィー大佐は、最早、道化でしかない。血とアフリカの民族衣装の鳥の羽根と米ドルにまみれたピエロが、息子たちに囲まれながら孤独の中にいる。時代が彼に反逆し、待つのはただ転落のみということを信じられずに。
『緑の書』政権の時間を要する血みどろの死は、アラブ世界を席巻する国民革命の中で訪れた。国民革命は、抑圧、搾取、恐怖の元に成り立っていた世襲共和国や軍のクーデターによる政権と決別し、新たな政治的正当性を求めている。この現状は、クーデター時代に様々な形で起きた文化的背信というものへの根本的批判を呼び覚ます。
座を追われたエジプトの独裁者の最後の政府で、文化相にガーベル・ウスフールが据えられた衝撃は、彼に対する批判の嵐の後ウスフールが「健康上の理由」で辞任を表明して終わった。ウスフールは彼に向けられた批判に対抗し得なかった。彼の「啓蒙的」武器庫が空になったからではなく、通りに血が流れたからだ。1月25日の革命家たちが、独裁者の誓約や彼の弱々しい素振りにごまかされなかったからだ。
エジプトの文化シーンは、独裁者と歩調を合わせることにより原理主義者たちの攻撃から守られるという盲目的考えに毒されてきた。スーザン・ムバーラクの宮殿でファールーク・フスニーが操縦する抑圧機構に同調する政権の小鳥たちの言い訳は、そのようであった。しかし、リビア人大佐の狂気が終わりを迎える時、明るみにされるのは、過去のあらゆる文化的背信に対する恥辱以上のものである。
読者は、スペインの大作家フアン・ゴィティソロが拒否したカッザーフィー世界文学賞の話を憶えておられよう。エジプトの評論家サラーフ・ファドルは、傲岸さの目立つ貧弱な議論で、ゴィティソロは賞を拒否したのではなく授与されなかったのだ、スペイン人作家の勘違いだなどと主張した。イブラーヒーム・アル=クーニーが、結局ガーベル・ウスフールに与えられたその賞の選考委員だったのには驚かされる。ウスフールはもちろん受賞に同意した。文化人男女の一団を引き連れトリポリへ行き、20万ドルをもらった。ゴィティソロに拒否された賞を救うために。一方、スペインの作家はアラブの友人であり、血ぬられた独裁者が与える賞で彼の名誉を汚したくなかったのだ。
このカッザーフィー賞の話で、エジプト人作家スヌアッラー・イブラーヒームが、エジプト文化省主催の小説会議が授与するアラブ小説賞を拒否した時に叩かれたことを思い出した。当時スヌアッラーは、アラブ小説の名誉を救済したのだが、権力文化の小鳥たちは狂気にとりつかれており、次には何とこの賞をアッタイイブ・アッサーリフ[1929-2009、スーダン出身]に授与した。『北へ還りゆく時』の著者に余計な名声を与えて抹殺するような真似をしてくれた。
しかし、カッザーフィーと文化やジャーナリズムの小鳥たちの話は長々しく、悲嘆と怒りしか呼び起こさない。愚かな大佐は、自らをナセルの後継者と宣言するだけでは飽き足らず、哲学者で文化人だと主張し、『村々、大地、鼻高々なものの自死』なるタイトルの短編集を著した。それについては、雇われ評論家がおびただしい数のコラムを書いただけで終わった。そこで文学は諦めることにして哲学、思想分野に乗り込み、『卑しき者たちの国、万歳』を出版した。ベイルートとキプロスの新聞出版に出資し、ベイルートにアラブ発展研究所をつくった。リビア国民から奪った金が文化人男女のうえに降り注いだのだ。愚かなまでの単純さが際立つ小著も書き、それに毛沢東の赤い本からインスピレーションを得て『緑の書』と名付けた。この本と共に、リビアへ向かう文化人の巡礼が始まった。アラブ人だけではなく欧米人も含まれていた。例えばイスラームに改宗したロジェ・ガルーディ[Roger Garaudy。フランス人哲学者]。そして彼は多額の金を受け取ったという。
大佐の思想と哲学を議論するための『緑の書』会議は、大学教授や高学歴者を満載したチャーター便を呼び寄せた。思想の矮小化の例であった。『緑の書』の時代には多数の文化人がそれを愉快な祭礼だと考えていた。大佐からちょっとした金銭をかすめとるためにお祭りに加わるのだ。「盗人から盗むのは、父の財産を受け継ぐような[正当な]もの」の諺を言い訳にして。美女の一群に守られたテント住まいの大佐は道化じみていると思いながら、ほとんどの人が、事はちょっとした冗談にすぎないのだからと進んでゲームに参加した。ある者は奨学金をもらい、ある者はご祝儀を得て、皆リビアの殺戮者の平安を讃えたのだ。
しかし、これらの文化人は、実は自分たちが大佐の道化師と化していたのだ。ここで、冗談は深刻なものになる。大佐はあらゆる価値観や原則というものを侮蔑して見せた。スーダンの詩人ムハンマド・アル=フィトゥーリーがリビアルーツの部族に属していると明かしたら、どうなったか、私たちは憶えている。何と彼は、ベイルートで大ジャマーヒリーヤ国の大使になっていた。
この文化的道化芝居に血なまぐさい一幕が続く。ムーサー・アッサドル[1929-。イラン生まれレバノン・シーア派指導者。1979年失踪]がリビアで消息をたったのを序幕とすると、アウズ事件はクライマックスである。チャド国境に近いその地域で、大佐はレバノン左派勢力とパレスチナ組織幹部を説得し、双方の傭兵をリビア・チャド国境での戦闘に加わらせた。この事件のはっきりした結末は知られていないが、向こう見ずな博徒どもに率いられた左派勢力は、戦闘と金の虜となり自滅したらしい。
それから、リビア反体制派に対する数々の暗殺を忘れてはならない。カッザーフィーが示唆し、金を出し、犯人をかくまうことにより加担していた犯罪である。リビアの文化モデルは、1982年のイスラエル侵攻によりベイルートでは終結したが、その競争相手はイラクのバアス党文化モデルであり、こちらもまた文化にとっては多大な試練であった。しかしリビアは、ベイルート陥落後、文化とジャーナリズムに更なる試練の扉を開いた。オイルダラー新聞が文化をつくり、石油富豪の大モスクが文化メディアの拠点となり、それらは自由を知らず成長する。独裁主義と表裏一体の原理主義が我々の生活を圧倒するのである。
アラブ独裁主義の壊滅と共に、文化の新たな段階が始まる。そこには独裁者の小鳥たちや抑圧機構文化のための場所はない。エドワード・サイードが開始し、ナスル・ハーミド・アブー・ザイド[1943-2010、イスラム学者]がそれに殉じ、アブドッラフマーン・ムニーフ[1933-2004、サウジ・イラク系作家]が書いたことに従う文化だ。取引や駆け引きをしない文化、それは自由という風土の中で形作られる。
(本記事は
Asahi中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:21668 )