Taha Akyolコラム:「司法にまかせよ」は本当に正しいのか?
2011年03月07日付 Milliyet 紙
「捜査は司法が開始する」、「裁判には司法が関与する」、「司法にまかせよ」、「司法の決定を待て」…。このような新聞の大見出しを私は目にし、その解説を読んでいる。
この法則が有効だとすると、私は公正発展党について解党裁判開かれるとすぐにこれを批判したが間違っていたのだ!タイイプ・エルドアン首相について「国民に敵意と憎悪を煽った」ことから刑事裁判が開かれたときもすぐに批判したがこれも間違いだったようだ…。
よく知られているサビフ・カナドオール最高裁判所検事長への処置を批判したことも誤りだったのだ…。
フェトゥフッラー・ギュレン氏について「テロ組織の設立と指導」との罪で裁判が開かれた時、いまだに証拠もみせず「一人だけの、武力を持たないテロ組織などない。この裁判は政治だ」と批判したことも誤りであろう…。
「司法にまかせよう」と沈黙しなければならないのだ!
■司法批判
いや、司法を批判したことは正しかった。
欧州人権裁判所の決定でも明らかになったように、「司法に対する世論監査」は民主主義に絶対に必要であり、「公正な裁判を受ける権利」にもまた必要なものだ。
確かに批判は礼節を保ち、法律用語を用いて行うことも必要である。
(アメリカのNPO)フリーダムハウスが世界各国の報道の自由度を格付けするのに用いる基準のひとつに、以下のものがある。
「裁判官は報道の自由を支持しているか?」
このことは、法の前にひとつの文化的問題であり、批判によってのみ発展する。
私はこう考えている、だから最高裁判所がフラント・ディンク氏に有罪宣告したことを批判したのだ。
今日、ネディム・シェネル氏のような、私もその人柄を知るジャーナリストが逮捕されたら、「司法にまかせよ」と沈黙することはできるだろうか?私とネディム氏の価値観や政治的態度が異なることは、法と自由の理解と比べれば二義的な問題である。
またトルコでは、一般的に逮捕が無分別に行われるのが弊習となっているのが現実だ。サードゥッラー・エルギン法務大臣もこれを言っていた。
■ジャーナリストと判決
「これほどのジャーナリストに関する捜査がおこなわれた」と伝えられるリストの中でヒュセイン・ユズメズ氏の名前もあった!本業はジャーナリストではなく、実際のテロ行為の捜査を受けた者もいる。
そのため、私は「これだけのジャーナリストが捜査されている」という一般化はまったく考慮しなかった。
これとは別に、ジャーナリストには「ジャーナリズムの外では」、すべての国民と同様、政治活動をおこなう自由もある。
これらの活動が「テロ組織のメンバー」と見做されるための証拠だとすることには、厳しく注意する必要がある。
「テロ組織のメンバー」という概念を独裁的な理解で広く解釈すること、そして自由の概念を独裁的な理解で偏狭に解釈することは、不当な適用に道を開く。
フェトゥフッラー・ギュレン氏についての裁判はこのようなものであった。こうした形で節度を逸することは、自由への深刻な危険である。正当な理由と重大な証拠を得て行われているエルゲネコン捜査においても、「節度を逸する」危険が発生したのだ。
■大統領の警告
ギュル大統領の次の警告は非常に重要である。
「検察官と裁判所が責任を全うする際には、より慎重な振舞いと、個人や団体の名誉、そして司法を汚すことのない態度を期待する。」
親愛なるギュル大統領が言うところの「世論の良心が受け入れられない展開」は、トルコの国外の評価をも傷つけている。
フリーダムハウスのレポートでは、報道の自由についてトルコの評価は「マイナス51」で、米国の評価は「マイナス18」であるのに、「トルコにおける報道機関が米国よりも自由である」と語ることは、ほとんど説得力がないであろう。
政府からは慎重な声が2つだけ聞こえた。それは、ビュレント・アルンチ国務相兼副首相、エルトゥールル・ギュナイ文化観光相が、少なくとも「遺憾の意」を表明したことだ。
今後、トルコの国内安定の観点から権力に次のことを喚起することを国民の義務だと考える。つまり、いかなるジャーナリストの自由な活動も、社会において、彼を抑圧することでいつしか形成される圧力程には「爆発的」にはなり得ないのだ!
報道の自由は単なる哲学的価値ではなく、同時に政治的安全弁なのである。
(本記事は
Asahi中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:21756 )