エジプトのアハラーム紙、新編集長を初めて記者たちが投票で選出
2011年03月10日付 al-Quds al-Arabi 紙


■ウサーマ・サラーヤー編集長の資産調査を要求、イブラヒーム・ナーフィウ元編集長の再調査も
■アハラーム紙が新編集長を選出、アラブきっての老舗新聞社の「表現的」時代に幕

2011年03月10日付『クドゥス・アラビー』紙

【ロンドン:本紙ハーリド・シャーミー記者】

 アハラーム紙の記者たちが同僚のアブドゥルアズィーム・ハンマードをウサーマ・サラーヤーの後任の編集長に選出した。ウサーマ・サラーヤーの方針は広範囲な議論を巻き起こし、最近ではエジプト革命の報道が原因で激しい批判にさらされていた。

 1875年創刊の老舗新聞社であるアハラーム紙の編集長ポストは、エジプト史の政治段階を示す指標だった。それは同紙が政権に最も近い新聞であったためで、ムハンマド・ハサネイン・ヘイカルの名はナセル大統領の時代と、ハムディー・ガマールの名はサダト大統領時代と、イブラヒーム・ナーフィウとウサーマ・サラーヤーの名はムバーラク大統領時代と結びついていた。

 だがこの数年アハラーム紙は、民間紙との競争にさらされて、技術面でも販売面でもかつてない凋落ぶりに苦しんでいた。先月起きたエジプト革命は、新聞社内部に「小さな革命」を引き起こしたが、ついに運営陣の放逐に成功した。運営陣はムバーラク辞任後もしばらくの間、[表では革命を賞賛しつつ裏では]大統領に味方する偽善的な方針をとり続けていた。

 同紙の記者たちは、2月3日の一面トップの見出しが「ムバーラク支持の数百万人が街頭へ」だったことを苦々しい思いで振り返る。タハリール広場のデモ隊を、ラクダやラバに乗った数百人のならず者が襲撃した、後に「ラクダの戦い」として知られるようになった事件の翌日の見出しがこれだったのである。また記者たちは、革命が始まって二日目の1月26日の一面トップの見出しが、エジプトではなくレバノン情勢に関するものであったことも記憶にとどめている。

 2008年5月4日のムバーラク元大統領の誕生日に「あなたの誕生日にエジプトも生まれた」との祝辞を載せたことに始まって、ワシントンでの5者和平会談で最後尾にいたムバーラクが、先頭に立って歩いているように写真を編集したという、「表現的写真(Expressive photo)」の名で知られるようになった出来事などを通して、サラーヤー前編集長が同紙の信頼性を失わせたと記者たちは考えている。

 米ウォールストリートジャーナル紙は、エジプト政府がウサーマ・サラーヤー編集長を介して、最も歴史あるアラブ紙の一つであるアハラーム紙を動かしていたのであり、ムバーラク政権が革命で打倒された後になって、同紙の作業チームはエジプト革命を賞賛し、サラーヤー編集長の方針を無視しはじめたと伝えた。編集者の一部は本社にサラーヤー氏が立ち入るのを妨害し、自分に不利な書類を処分したり持ち去ったりすることを恐れて、サラーヤー氏のオフィスに寝泊まりする者すらいたという。サラーヤー氏自身も革命を擁護し始め、ムバーラク政権時代に自分は改革と変化のために尽力したと言い始めた。また自分の給料は年に12万ドル程度だとも述べたが、記者たちは月給ですらこの数字を超えていると主張し、不法所得調査機関に対して彼の資産を調査し、前任者のイブラヒーム・ナーフィウについても再調査するよう求めた。
(中略)

 報道によれば、現在の運営陣から外されていたアブドゥルアズィーム・ハンマード新編集長は投票で130票を獲得、詩人のファールーク・グウェイダは90票を獲得した。アハラームの記者たちは編集長を投票で選ぶという初の試みに参加した。投票は先週の日曜日から昨日まで、5日にわたって行われた。また記者たちは新編集長の候補者が備えていなければならない客観的な基準について合意した。その基準のうち最も重要なのは、政党に所属していないこと、編集と宣伝の混同に加担したことがないこと、政府高官や実業家や企業の顧問でないこと、であった。

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:山本薫 )
( 記事ID:21790 )