Ali Bayramogluコラム:クルド人自治区を支持する
2011年05月12日付 Yeni Safak 紙

誰が何と言おうと、クルド人自治区の設置は、クルド問題を一体性および非中央集権の観点から考える上で重要な解決手段である。

クルド人自治区の設置は、クルド問題に関して、クルド人から出てきた初の政治的な具体的要求であり、共生の願望を強調する点から重要である。

しかし、それは、ある条件の下での話である。

クルド人自治区設置の議論や考えを悪用し、衝突を煽るような武力闘争に発展させないという条件だ。

今日我々が抱えている問題は、これに起因している。

というのも、クルド側の声明や、そのタイミングを考えると、「クルド政治活動」が最近行っていることは、残念ながらこれ(クルド人自治区設立の議論や考えを悪用し、衝突を煽り、武力闘争に発展させること)であるからだ。

クルド政治活動の方針は、これを用いたクルド人自治区の議論を、ただ衝突の手段として利用するのみならず、同時にクルド人自治区の発想に傷をつけ、その前途を塞ぎ、自治と分離独立の間の橋渡しに向けたものである。

実際、自治区設置は分離独立につながるものであるとして反対するヒステリックな声と、クルド側の公式な政策は互いに混ざり合い、同じところで出会っているのである。

欠陥ある民主主義と、ますますひどくなる政権の停滞とがこの状況を増幅しているのは疑いない。

今日のそもそもの問題は、クルドの公式政策にある。

イムラル島(=オジャラン)、カンディル・キャンプ(=PKK)、平和民主党の三角形からなるクルド人自治区プロジェクトに彼らが込める意味から考えると、民主的自治区の提案とは、単なる解決策の模索ではなく、政治社会領域やクルド地域の新たな構築とその認知のためのプロジェクトでもある。

この点でも、クルド人自治区プロジェクトは、本来の目的の度を超えている。既存の合法及び違法なクルド人組織が、クルド人の社会領域を監査下に置き、再構築するプロジェクトとして我々の目に映る。

クルド側の政治活動は、問題解決の手段であるクルド人自治区設置の提案を、それと同じ位、衝突、衝突の激化、活動地域拡大の手段としても利用している。

この証拠は、彼らの声明だけに依るものではない。

クルドの政治活動は、自治区を一方的に設置しようと先走っている。

これは既存の民主政治の可能性や限界を超えた、対立的な政治攻撃である。

この対立的な政治は、相手を強制し追い込むことで自分の勢力圏を拡大し、また主要な投資を自らの社会集団に行っている。実際に、 平和民主党のクルド人自治区への期待や声明は、単なるひとつの要求ではなく、社会と政治の核をつくり、更には、経済政策をうちだそうとしているようにも我々の目に映る。

この点で、社会が閉ざされた世界で組織に導かれ、あの組織のように、あの組織を模範に、同じ見解を持って再構築へと進んでいるのを我々は見ている…。

私は5月のディヤルバクルを覚えている。

民主市民会議(DTK)が行った自治区に関するシンポジウムで、クルド人の公式代表は、民主主義が不十分で、現在の民主主義の進展は欠陥を持っていること、反資本主義の重要性、集団生産、下から上への全く新しい政治参加モデル模索の重要性を頻繁に口にした。

以前にも書いたことがあるが、それを繰り返す時期だ。この問題の存在が注目されていたとき、私はあの日ディヤルバクルで要約すると以下のことを述べた。

「民主的な組織や価値観の成長が不十分で、『全消去』が行われるような場所で生まれるのは、国家統制主義である。こうした条件下で、直接民主主義、下から上への政治決定のメカニズムを構築すると、人間よりもモデルが前面に出ることになる。直接民主主義は、上へと向かう垂直の組織化モデルと混じり合い、下から上への共産主義的システムが生まれる。単一思想の大衆参加が、多元主義と誤解される。しかし、実際には、そこでは多元主義は失われているのである。世界には、このような例が非常に多くあるのだ・・・。」

結論:クルド問題が、いつの日かクルド人自治区の設置、または別の手段により解決するのであれば、これは、トルコの世論や政府が民主化するのと同じくらい、クルド人が多元化することを必要とする。

そうでなければ、構築されるものはクルド人のケマリズムだけであり、衝突は終わらないだろう…。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:22472 )