コラム:はっきりと、シリアの体制を支持する
2011年05月16日付 al-Quds al-Arabi 紙

■はっきりと、シリアの体制を支持する

2011年05月16日『クドゥス・アラビー』

【カマール・ハラフ(パレスチナ人作家)】

この2か月以上、あらゆるシリアの体制に批判的な人達にページを割いてきた『クドゥス・アラビー』紙の流れに逆行するとは知りつつ、次の問いから書き起こすことをお許しいただきたい。「私のようなパレスチナ難民がシリアの体制に反対する側に立ち、集中砲火のメディアキャンペーンに加担することなど出来ようか」。

私はシリアのあらゆるパレスチナ難民同様、公立学校と大学で無償教育を受けた。故ハーフィズ・アサド大統領はシリア憲法の中に、“シリア国民”という言葉と並べて、パレスチナ人を示唆する“施政下にある者”という文言を並置させた。そうすることで、パレスチナ人の権利が憲法によって保証され、国家のあらゆる部門の担当官や決定権を持つ者たちの気まぐれに左右されないようにしたのだ。この文言によって全てパレスチナ人は、シリアで自由に、尊厳を持って、生きることができた。パレスチナ人としてのナショナル・アイデンティティと、祖国に帰還するまでの暫定的な立場とを保持しつつ、アラブであれそれ以外であれ、いかなる国においても夢見ることができないような地位や役職に達することが出来たのだ。シリアのラジオ・テレビ公社のトップを何年も務めたのはパレスチナ人詩人のユースフ・ハティーブであった。他にも、シリアの社会や組織の中で活躍しているパレスチナ人の知識人やジャーナリストやアーティストや作家は数えきれない。シリアの体制は国民に民族文化を強化・育成してきた。そのため、シリア国民はパレスチナ人を異質な他者やよそ者とみなすことなく、逆にシリア社会を織りなす一員として受け入れてきた。またいかなるアラブ人であれ、シリアに入国するにはビザは不要であり、アラブ国籍のパスポートさえ持っていればいいということも、ぜひここで指摘しておかねばならない。

シリア国内のパレスチナ難民キャンプは、難民たちの一時的なシェルターとしての伝統的な性格を維持してきた。そして我々はシリア国内で、あらゆる種類の政治活動を行ってきた。イスラム主義であれ、左派や民族主義であれ、キャンプはパレスチナのあらゆる潮流を含みこんできた。そして諸派の指導部は、声明の発表を認められ、目的を持った闘士としての特権を付与されて、シリア全土での行動を保護・容認されてきた。

シリアではパレスチナ人は尊厳を持って生きてこられたというのに、残念なことに、他のアラブの首都で政権が難民に向ける扱いは、様相が異なる。レバノンでは宗派主義体制の下で、パレスチナ難民は最低限の人権もない生活を送っているし、パレスチナ難民にはドバイ首長国以外の湾岸アラブ諸国への入国が禁じられている。

公式な招待を受けていたにもかかわらず、私はある湾岸の国の空港で、連続13時間も立ったまま待たされたことがある。招待側は私をシリア国籍だと思っていたのだが、空港の係官は私が難民であると知ったため、これだけの時間、待たされることになったのだ。バングラデシュ人やインド人、スリランカ人たちが大勢、このアラブの国にいとも簡単に入国するのを横目で見ながら、私が受けた傷がどれほど深かったことか。

なぜかアラブの報道機関には取り上げられなかったのだが、シリア反体制派の指導者の一人であるファリード・ガーデリーが、体制が崩壊した暁には、ダマスカスの空にイスラエル国旗を翻らせたいとの願望を口にしたことは、シリアでデモを率いている勢力の正体と、パレスチナ人およびパレスチナ問題に対する彼らの見方について、無数の問いを投げかけるだろう。たとえば過去二カ月の間に、シリアでのみ起きた小さな事件があった。サイイダ・ザイナブのパレスチナ難民キャンプの近くに、地元の報道によれば、身元不詳のデモ隊がバスで乗り付けて、キャンプとパレスチナ人に敵対的なシュプレヒコールを叫び、シリアから出て行くよう求めたのだ。これは単なる偶然ではない。その背後には、見えない汚れた手がうごめいているのだ。

いずれにせよ、シリア国民には言いたいことを言う権利がある。リビア同様、西洋諸国を引き入れてシリア政権に対峙させようと目論む連中は別として、我々はシリア国民の高邁な民族意識を全面的に信頼している。リビアの暫定国民評議会のような状態に至る事を夢見ているのだろうが、国民評議会は西洋の意のままになり、革命も春もなく、ご満悦でいるのだ。シリア国民が体制変換を望むというなら、そうする絶対的な権利と自由がある。政府に反対し、攻撃し、その打倒を神に祈るというなら、そうする全面的な権利がある。しかし、シリア政権を支持するという意見の持ち主として、私にも権利が認められるだろうか。自由の呼び掛け人、春の蝶々、民主主義や意見の多様性や異なる意見を持つ権利の理論家といった諸氏は、私の意見を受け入れるだろうか。私には疑問だ。

1916年のアラブ大反乱を常に想起すべきだ。奴隷状態と搾取からの解放と、アラブ政権の樹立をあらゆるアラブ人が夢に見、歴史への復帰が始まったと当時は多くが思い描いたものだ。だがその結末は悲惨なサイクス・ピコ協定であり、地域の分割であり、パレスチナの喪失とイスラエルの建国、一層の後進と従属主義と専制であった。革命の春は、第二のアラブ大反乱となるであろうか。類似点と相違点を見つめよう。異なる意見を持つ権利を保持しつつ。

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( 翻訳者:山本薫 )
( 記事ID:22531 )