Fikret Bila コラム:80年クーデター・エヴレン将軍の後悔は「クルド語の禁止」
2011年06月10日付 Milliyet 紙
ケナン・エヴレンが検察官の問いに対して、「後悔はしていない。今日であってもまた行う」と答えたことが報じられた。
エヴレン将軍は「当時の状況が現在に存在していれば、私は再びクーデターを起こした」と述べ、1980年の9月12日クーデターを擁護している。「後悔していない」と述べている。さて、エヴレンが後悔していることは何一つないのか?もちろんある。
■拷問の責任者
私は『司令官達の顔』という本の執筆中にエヴレンとも対談した。
ディヤルバクル刑務所をはじめとする刑務所で行われた拷問に関する私の質問に答えるなかで、彼は「私は当時大統領でした。我々は政府を司っているのであって刑務所を司ってはいないのですから!大統領がディヤルバクル刑務所を指揮するでしょうか?」と述べた。
「あなたは政府のトップでした。軍統治の責任はあなたにあります」と問うと、次のように答えた。
―そうであるが、そもそも刑務所ではかつて作られた組織がある。それは継続している。
「では、ディヤルバクル刑務所でおきたことの原因は何だと思うのですか?」
―私はこう思います。9月12日クーデター以前の時代、刑務所の看守たちは非常に苦しんでいました。クーデターが起こると、彼らは囚人に復讐したのです。
エヴレン将軍は、この問題について「すなわち、私は、彼らに磔にしろ、拷問をしろなどということは言っていないわけですから」と述べて結び、責任を負わなかった。
■クルド語の禁止
エヴレンは拷問の責任を認めなかった。しかし、クルド語の禁止に関しては「間違いをおかした」と述べた。
エヴレンとの対談を2007年に、9月12日クーデターの27年後に行った。エヴレン・パシャが悔いる問題はクルド語の禁止であった。
エヴレン将軍はクルド語をいかに禁止したかを次のように説明した。
「クルド語をなぜ禁止したのですか?」
―説明しましょう。クーデターにおける我々の1つの失敗がそれでした。クルド語の使用を禁止しました。次のようにして禁じました。演説で、集会で、あちこちでクルド語は使わせない。学校などでクルド語での授業は行えない。どうして我々はそういったのか?私は大統領時代にある村の小学校に行きました。覚えていませんが、3年生か4年生のクラスに入りました。教科書を開いて、子どもにこれを読んで見ろといいました。「えー、あー」といって子どもは読めないのです。私は怒りました。そこで言いました。教師に向いて「4年生になってトルコ語が読めないとはどういうことだ?」と言いました。後からわかりましたが、教師もクルド人でした。クルド語で授業をしていました。アンカラに戻って、クルド語の禁止を施行しました。クルド語での授業は行えないとしました。しかし少し厳しくしすぎました。後にこの禁止は廃止されましたが、禁止は間違いでした。間違いであったと後でわかりました。
「どうわかったのですか?」
―まあ、武装闘争の件は別にしても、我々は我々の国民を守る必要があります。彼らは彼らの言語を話し、彼らの文化を生きればよいのです。我々は彼らと融合しなければいけません。この作業は喧嘩や、禁止でもっては為されません。もちろん彼らの言語を話せばよいが、しかし教育はクルド語でしてはなりません。それは別問題です。授業はトルコ語でなければなりません。
■役人はクルド語を知る必要がある
―ベルギーを例に取り上げましょう。フラマン人とワロン人が抗争している。私は参謀総長時代にカナダへ行きました。カナダのケベック州に行きました。カナダの参謀総長が案内をしました。ケベックでの言語はフランス語です。不思議に思いました。カナダではどうしてこうなっているのか、と言いました。彼らが言うには、ここはフランスの植民地だったところです。のちにフランスは手放しましたが、ある協定によってここの民衆は自言語を使用する、とされたのです。この地域で政府の仕事に就く国民は、英語もフランス語も知らなければいけない、と彼らは言いました。この地域で働くにはこれが必須だそうです。さて、トルコでも、南東アナトリアで働く役人はクルド語も知らなければいけません。強硬路線ではこの作業は為し得ません。
エヴレンのクルド語に関する意見の変化が印象的であった。
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( 翻訳者:吉岡春菜 )
( 記事ID:22829 )