Eyup Canコラム:エザンにジャズの伴奏―ジェイミー・カラム・コンサート
2011年07月09日付 Radikal 紙
人生はリサイタルだ。どこからともなく声にエコーがかかって聞こえてくる。ああ、もっともっとこの声を聞いていられれればと切実に思う。ジェイミーどうも有難う。
昨日radikal.com.trの中で、最も読まれた記事が何であったか、読者の皆さんはご存知だろうか?「サッカーでの八百長捜査」でも、「国会での宣誓危機」でもない。紙面でもラディカルのインターネットサイトにも、ヘッドラインには、アズィズ・ユルドゥルム会長による注目の発表や、ジェミル・チチェキ国会議長がクルチダールオールCHP党首と会談した記事、憲法裁判所がハティプ・ディジュレに関連して下した決定もあった。
しかし、「ジェイミーのエザンコンサート」はこうした記事よりもはるかに人々の関心を集めたようだ。では一体「ジェイミー」とは何者だろうと考える読者もいることだろう。
その説明はのちほどするとして、まずはどうしてこの記事にそれほどの関心が集まったのかを検証してみたいと思う。
一部の新聞記者のように、「政治やスキャンダルの記事には人々が飽き飽きしたんだろう」と言うのは簡単だ。しかし、物事はそう単純ではない。
「国会での宣誓危機」も「八百長スキャンダル」も、ここしばらく「自動運航していた」新聞やニュースの反応を、様々な理由でやせ細ったジャーナリズムを活性化した。トルコにこれほど政治的な事柄が溢れかえっている以上、「もう政治関連記事を読まない」ということは、頭を働かせないと宣言することに他ならない。こうした例は、これらの記事がどのように“提供”されているか、ということを端的に示しているだろう。「八百長スキャンダル」にも同じことが言える。
2月28日(過程)の際に「メモ」に名前が載ってしまった人々が、エルゲネコン訴訟の際にリークされた情報や資料について批判しているのは記憶に新しい。2月28日のメモの“犠牲者”たちは、 バルヨズ関連の資料がリークされる際にこれを歓迎し、フェネルバフチェとアズィズ・ユルドゥルム会長に関する情報と資料がリークされた際には会長やチームを守ろうとして、メディアを「心理的操作」であるとして非難している。
もうそうやって、互いに化かし合うのはいい加減やめたらいい…。
我々メディア関係者は、「純粋無辜」ではあり得ないし、政治やスポーツとても、それは当てはまるのである。
誰もが皆、自分の身に関わることにしか権利を主張しない。理に適うかどうかではなく、自分の立ち位置や偏見によって態度を決めているのである。従って、読者の中には、新聞を読むことで、自らの偏見を確認することを期待している人もいる。
しかし、中には新しいことを知ったり、学んだり、知ったことについて議論したり、記憶していたことを塗り替えたりすることを望んでいる読者もいる。従って、読者もジャーナリズムも決して一様ではありえないのである。だが、もしかしたら、驚いたり、驚かされたり、ということが人々の新聞を読む理由の核にあるのかもしれない。だからこそ、これほど、ジェイミーのエザンコンサートはこれほど人々の興味を集めたのではないだろうか。
非常に残念なことに、コンサート会場に足を運ぶことは出来なかった。
“ノラ・ジョーンズの男性版”として、“ジャズ界のフランク・シナトラ”として人気を博している英国人ピアニストで歌手、作詞家のジェイミー・カラムは、斬新なジャズと破壊的なステージでのベルベットボイスでジャズ愛好家の心を鷲掴みにしているいたずら坊主という印象の若者である。
「Twentysomething」で世界を席巻し、筆者も彼の最新アルバムの「The Pursuit」を購入したばかりだが、非常に気に入っている。ジェイミー・カラムのコンサートにはラディカル社では、ウムト・エルオールが取材に出かけ、エザン伴奏だけでなく、コンサート全体を素晴らしく生き生きとした批評記事で表した。ウムトの批評を読み、添付されたエザン伴奏シーンの動画を見れば、自分も会場にいたかのような満足感で一杯になった。
読者の反応は二手に分かれたらしい。
ジェイミーがエザンに伴奏をつけたことに賞賛を与えた人と、テンポが保たれなかったこと、または、コンサートをやめてエザンに熱をあげたと批判する人である。さぁ、皆様ご覧あれ、政治のなかにはこうして音楽と宗教が存在しているのだ!誰もが、自分の信念に沿って、この記事にコメントをし得る。でも、私は先に挙げた理由でこの記事がとても好きだ。政治、と私たちが言っているものは、国会に関連し、宗教、と認識しているものは、モスクや教会に限定されていると思いがちだが、実際のところそうではないのである。こうした一見遠くに見えがちな話題は、人々の生活の中にこそ存在しているのだ。
屋外で敢行されるコンサートにエザンはつき物である。
大抵の場合、会場の近くにモスクがある際、エザンの時間を考えた上で、プログラムが組まれる。しかし、実際にコンサートが行われれば、なかなか当初の計画通りに進まないのが正直なところだろう。(演奏中にエザンが流れた際には)宗教に対する畏敬の念で、エザンの間は演奏を止めたり、エザンを聞こえないふりをしたり、無理に音量を上げたり、といった対応がそれぞれのアーティストによってとられる。
ジェイミーは、夜半のエザンの流れてきたのに気が付いて、演奏の手を止めた。そして、ピアノの前に向かうと、3,500人の観客を前にエザンに即興で伴奏をつけてみせた。観客はどれほどそれに感動したことだろう…。ジェイミーはエザンとの即興を堪能した後、「この素晴らしい声に伴奏を付ける許可(機会)を与えてくださった皆さんに感謝します」と言って、コンサートを締めくくった。
人生はリサイタルだ。どこからともなく声にエコーがかかって聞こえてくる。
こうした即興曲が、私たちの周囲を取り巻く諍いの声の代りに聞こえてきたらどんなに素晴らしいことだろう、慎ましやかに相和してのちに相手に感謝出来たら…。
どうも有り難う、ジェイミー。
罵り合う代りに、相和すことだって可能なのだ、ということを思い出させてくれたことに感謝を。
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( 翻訳者:沓澤実紗子 )
( 記事ID:23195 )