消え行くイスタンブルの遺物に警鐘
2011年07月10日付 Yeni Safak 紙
イスタンブルの最も重要な歴史建造物が現在まで残らずどのように消えていったのか、オンデル・カヤ氏は消えゆくイスタンブルという名の著書で歴史とともに説明している。これらの中に、給食所、モスク、図書館、マドラサ、海沿いの別荘などが含まれている。カヤ氏によると、イスタンブルを待ち受ける最大の危機は無知であるとのことだ。
イスタンブルは、なんと多くの事件が発生した舞台であり、その証人なのであろうか。この古い町は、イェサリ・アスム・アルソイ氏、オスマン・ニハト・アクン氏のような優れた作曲家や、バーキー、ネディム、ヤフヤ・ケマル、オルハン・ヴェリ・カヌクのような優れた作家を生んだ。芸術や文学においてだけでなく、スュヘイル・ウンヴェル、セマヴィ・エイジェ、イルベル・オルタイル、レシャト・エクレム・コチュのような多くの歴史家も生み出した。このような豊かさを育む都市は、時に抗えず一部の美しさを何度も何度も失ってきた。アクサライ、アヤスパシャ、タルラバシュ、そしてベイオールはこれらのうちである。さて、この消えゆく歴史的、観光都市イスタンブルのこうした相貌を、オンデル・カヤ氏は調査し、失われた遺跡をたどって、消えゆくイスタンブルという名で本を著した。オンデル・カヤ氏は過去と未来の間でイスタンブルを解説している。
■イスタンブルを待ち受ける最大の危険は無知である
著者は、今日のイスタンブルを待ち受ける最大の危険は無知であると述べ、これについてある提案をしている。「このあたりで現在残っている民間の建物は保護下に入るべきであり、そして最短時間で元の特徴を失うことなく復旧すべきです。なぜならイスタンブルの歴史的・文化的な物に加えられる被害を復旧することができないからです。」
私たちは毎年5月29日にイスタンブルの征服を祝っている。カヤ氏は、これの代わりにもっと恒久的な作業に着手すべきと説き、「イェニチェリの服を着て、軍楽隊の音楽とともに道を歩く代わりに、先祖伝来の共通の歴史的価値を保護するために保存運動に着手することがより賢明です。」
著者は、そうした作業の手始めに、イスタンブルのファーティフ地区の至宝であるアクデニズ・マドラサから着手する必要があるとのべた。オスマン朝時代の多くのマドラサは、社会の生活の最も重要な場所となっていた。その時代に多くの人が教育を受けたこのマドラサの部屋は今貯蔵庫として使われている一方、中庭は鶏の飼育に使われている。部屋の窓は壊れている。オンデル・カヤ氏はこの建物が復旧される必要があると強調する。「ファーティフの最も中心にあるこれらの建物は、文学部か神学部として使用できます。それか、それ自身が歴史であるファーティフ地区やファーティフ時代を調査の基盤に据える研究施設の管理に譲渡もできましょう。」
■修復は専門家に
オンデル・カヤ氏は、実施が必要なことと同時にすでに着手された試みについても述べている。「ワクフ総局は帝国時代の君主の複合施設を始めとして多くの歴史建造物の(修復)計画を開始し始めました。このようにして2000年以降、建築の分野でトルコで最も高い権威を持つイスタンブル工科大学、ボアジチ大学、ユルドゥズ工科大学と連絡を図りました。」
2004年1月2日に施行された法により歴史建造物を復旧した会社と個人が行った支出は税の免除を受けると決まった。さて、このおかげでミーマール・スィナンの芸術作品として知られるセリミイェ・モスク、エミノニュのイェニ・モスク、ビザンツ時代から残るゼイレキ・モスク、アザプカプ・サリハ・スルタンの泉が復旧された。この展開を肯定的に見るカヤ氏は、警告を怠らない。
「忘れられるべきでない最も重要な問題は、この仕事が専門家の管理下で長い期間をかけて行われたことです。さもなければ復旧を行いましょうと言いつつ、歴史的建造物は奇妙な石の塊と化してしまう。昨今ではヤヴズ・セリム・モスクの歴史の噴水に起こったことは、最も具体的な例である。」
カヤ氏は、(修復の)順番を待つ歴史的建造物の数が何千もあると述べた。これらの中で、まず優先すべきとするのはイスタンブルの中心地にあるシェフザーデ・モスクのアシュハーネ(給食所)である。当時は一日に2000人へ食べ物を出していたこの建物は放置されたままである。オンデル・カヤ氏は印象を次のように説明している。
「壊滅的な状態にある中庭を過ぎ、給食所の建物に至ると目にするのは心を痛める風景です。当時は何百人もの人に食べ物を作っていた竃は、ゴミで埋め尽くされていました。ガラスは壊れていました。」厨房は2011年に復旧され始めた。中庭は緑化され、より美しい状態だ。
■イノニュ・スタジアムはある時期本当に誰かの墓であった
イノニュ・スタジアムを知らないものはいない。ベシクタシュが自分のグラウンドでプレーする試合でしばしば言われる言葉がある。「イノニュはあなたにとって墓場となる」と。スタジアムの歴史を見てみると、この言葉が真実であることが見てとれる。イスタンブルは一方では墓地の町として知られている。セマヴィ・エイジェ氏によると、我々の墓地は、歴史・芸術・文学のある種の屋外の記録である。ここ50年間イスタンブルの墓地は撤去され、町の中に取り込まれてきている。これの最も基本的な理由は古い時代の墓地が無計画に作られていたことである。20世紀初頭以降墓地は縮小化され始めた。この縮小作業に伴い失われた多くの墓が明るみに出た。今日まで残らなかった墓地のひとつが現在のイノニュ・スタジアムのある場所にある。多くの墓石が失われた状態にある。失われた墓石のいくつかは近代の建物の基礎を固める目的で使われた。失われた墓石の中にはオスマン朝の歴史家シラフタール・フンドゥクルル・メフメト・アー、陸軍軍事学校長レシト氏の墓石があり、保護された。
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( 翻訳者:倉田杏実 )
( 記事ID:23225 )