Murat Yetkinコラム:シリア、クルド問題、PKK・・・時代は変わった
2011年10月15日付 Radikal 紙

平和民主党(BDP)のデミルタシュ党首は、シリアのクルド指導者マシュアル・タンムー氏の殺害を認めたシリア政府に対し、その責任はアサド大統領にあると非難した。

BDPの共同党首であるセラハッティン・デミルタシュ氏は、昨日(14日)、ヒュッリエット・デイリーニュースに特別メッセージを寄せた。このメッセージで、デミルタシュ氏は、シリアのクルド指導者マシュアル・タンムー(トルコ語読みはメシャール・テモ)の暗殺を認めたシリア政権とアサド大統領を非難した。彼は、アサド大統領が、これを、シリアにおけるクルド・アラブ対立、スンナ派・アラウィー派対立がトルコに波及する可能性のある問題であることを示すためにやったのだとし、その意味で「シリア問題から手をひけ」とトルコを脅迫するためにやったのだ、と述べた。さらに、デミルタシュ氏は、シリアのアサド政権がトルコの民族対立、宗派対立を煽ろうとしているという見方を、先日、ギュル大統領やダヴトオール外相に伝えたとも語った。

■父アサド、子アサド

BDPはもちろんPKKとイコールではないが、(前党首の)アフメト・チュルクやその他の政党幹部が何度も発言しているように、同じ支持層を共有している。PKKのマシュアル・タンム暗殺に対する懸念は、すでに紙上で報じられている。PKKは、クルド問題の焦点が、自分たち以外のところにそれることに不快感をもっている。

この状況は、BDPに対し、シリア問題で、単にAKP政権とだけではなく、(政府や軍に代表される)トルコ国家とも同じ立ち位置にたつことを強いている。昨日のデミルタシュ氏の発言を、私は一種の感慨にもって読んだ。なぜなら、バッシャール・アサドの父であるハーフズ・アサドは、今日のPKKが(BDPを通じて)国会に代表を送るほど、また、エルドアン首相がクルド問題の交渉相手として認めるほど、クルド民族運動が拡大し裾野を広げたという展開に、大きな役割を果たしたからだ。父であるハーフズ・アサドは、1980年代半ばから1990年の終わりにいたるまで、PKKの独立要求やトルコに対する武装闘争を支持し、PKKの創設者であるアブドゥッラー・オジャランを何年もダマスカスにかくまっていた。

■デミレルとアサド

当時のデミレル首相は、当時のアサド大統領に対し、オジャランのダマスカスの家の住所と電話番号を示し脅したけれど、アサド大統領は、(PKKの)武装闘争がトルコを慎重にさせ、地域での影響力の行使を控えることを知っていたため、眉毛一本動かさなかった。しかし、その後、デミレルは、当時の陸軍司令官アッティラ・アテシュが国境視察をした直後に行われた1998年10月1日の国会開会式の演説でシリアを名指しで非難し(シリアへの軍事攻撃を示唆した。)これを受け、アサド大統領は、10月9日に、オジャランを国外追放にした。この事件はオジャランが1999年2月15日にギリシャのケニア大使館の裏口で、アメリカCIAとトルコの国家諜報局(MIT)の共同作戦で逮捕されることで終わった。

いま、オジャランは終身刑でイムラル島の刑務所にいる。トルコ国家諜報局の代表は、エルドアン首相の命で、オジャランおよびPKKと――しばしば停滞はするものの――折衝を続けている。折衝での重要案件のひとつは、オジャランを「自宅軟禁」の名目で、イムラル島から出す、という件である。

■出口は?

一方、トルコはアメリカ、イラク中央政府、北イラクのクルディスタン自治政府とも、カンディルのPKKキャンプの無力化にむけ折衝を行っている。NATOのミサイル防衛網の一環としてアメリカのレーダーがマラトゥヤに設置されることが決まると、アメリカからパキスタンやアフガニスタンでアルカイダ掃討に使われた無人飛行機がトルコに提供されることが発表された。

デミルタシュ党首のメッセージは、まさにこのタイミングで、クルド問題の解決策となりうる憲法改正作業がはじまる直前になされた。ギュル大統領はこうした構図のなか、参謀本部長のネジュデト・オゼル大将をともなって、イラクとイランの国境に近いハッキャーリの駐屯軍を視察にでかけた。

これで、全てが明らかだろう。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:24254 )