ウルデレ事件犠牲者の父、棺にかけられたPKKの旗に嘆く
2011年12月31日付 Milliyet 紙


トルコ軍の傷痍軍人(ガーズィー)で、今回の事件で17歳の息子を失ったアブデュルアズィズ・エンジュさんは、ヴァタン紙と会見し、こう抗議した。「政府は何もしてくれなかった。子供の棺桶の上にはPKKの旗がかけられていた。この光景を見て本当に辛くなった。私たちは捨てられたのだ。」

自ら志願してトルコ軍の村落警備隊に加わっていた時に足を失ったガーズィーのアブデュルアズィズ・エンジュさんは、今回の軍事行動で17歳の息子サリフさんを失った。サリフさんは通信制高校へ通っていて、夢は大学に行くことだった。父親のエンジュさんは、空爆でわが子の命が奪われた事件での政府の無策と、葬儀で政府が(PKKに抵抗してきた)自分たちを守ってくれなかったことに抗議している。

「私は山岳地帯で祖国のために足を失った。99年にドュウン山で、PKKが埋めた地雷を踏み、伯父はそこで死んだ。私の足は吹き飛んで、ほかの兵士もけがをした。山にはひとつだけ血清があり、彼らはそれを足が吹き飛んだ私にくれた。しかし私はその血清をはずして、『あの兵士は若い、血清は彼にやってくれ、私は年よりだから』と言ったのだ。こんな自己犠牲は、子供たちの将来のためにと思ってやってきたのだ。なのに、今、私の息子、17歳のサリフが棺でもどってきた。17歳だった。チュコロヴァ大学で学ぶ兄のように大学へ行きたがっていた。通信制高校へ通っていて、婚約をしたばかりだった。しかし我々は彼を失った。それも、国の飛行機が落とした爆弾で。こんなことが起こっていいのか?調べもしないで爆弾を落としていいのか?責任者を明らかにしなければならない。私は国にこんなに献身してきた。足をなくしてまで善意の救助を行った。これでも足りないかのように、我が子を失い、誰からも助けはない。子どもの棺にPKKの旗がかけられていた。政府は何もしてくれなかった。葬儀は民主市民党(BDP)のプロパガンダ広場となってしまった。この光景を見て本当に辛く感じた。私たちは捨てられてしまったのだ…。」

■2度目は棺で戻ってきた

もう一人のガーズィーは30歳のメフメト・エンジュさんだ。メフメト・エンジュさんは1998年、北イラクに対して国境軍事行動が行われた際、爆発した爆弾で両目を失った。繰り返された手術の結果、片目は回復したが、それもよく見えない。今回の事件で、エンジュさんは13歳の息子エルカンさんと2人の弟、29歳のヒュスニュさんと19歳のサヴァシュさんを失った。

エンジュさんはまず、なぜ息子が密輸を行っていたのかを次のように説明した。「私はガーズィーなので、月に千リラ(約41,000円)が支給されている。しかし5人の子供がいる。ケマルは下から2番目の子で、初等教育の7年生だ。もちろんおこづかいをあげることはできない。以前、私のところへやってきてこう言った、『お父さん、僕のポケットには5クルシュもないよ。お金のために重油の密輸に行く』と。ダメだと言ってもポケットにいれてやれる金はないので、許した。これが2度目だった。そして棺に入って帰ってきた。」

エンジュさんは旗の件に関して激怒しており、「そもそも私の視力は弱いので、棺の上にあるのはPKKの旗なのかと疑った。信じられなかった。こんなことは受け入れられない。これは私たちの選んだ議員が葬儀に来なかったために起きたことだ。彼らが何もしなかった結果、こんなことが起こってしまったのだ。」

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( 翻訳者:藤井彩香 )
( 記事ID:25031 )